天明3年(1783)の暗雲
「殿さま。真夏というのに、霜がおりたように、庭の木々の葉という葉に白くつもっております」
天明3年(1783)6月26日(旧暦)の早朝七ッ(午前4時)すぎであった。
手水(ちょうず)から戻ってきた久栄(ひさえ 31歳)が、平蔵(へいぞう 38歳)の横に伏せながら、つぶやいた。
昨宵、睦みが終ったとき、夫が珍しくやさしく許してくれた。、
「久しぶりだ、このまま朝まで、同衾していけ」
庭に面した障子が白じむころ、ふと、指が平蔵の硬めにふくれているもの触れ、つまんでいるうちに自分のものも熱くなってきたのだが、出仕の日でもあったので耐え、たまらず厠(かわや)へ立ち、気を鎮(しず)めてきたのであった。
「なにっ!」
平蔵はすばやかった。
すぐに庭木をあらため、衣服を着すると、
「皆を起こせ」
久栄は自分の部屋へかけ戻り、身づくろいをととのえ、腰元のお芭瑠(はる 20歳)を起こし、板木をたたくようにいいつけた。
板木は武家の屋敷では非常用に吊るされていたが、めったにたたかれることはなかった。
四半刻(15分)後には、全員が平蔵の居間前の庭先に集まっていた。
「ご苦労。非常の呼集は、おのおのが目にしているごとく、浅間山の火坑からの灰がはげしく積もったからである。なに、わが屋敷の庭木に積もった灰は、落とせばことはすむ。
しかし、知行地の寺崎村と片貝村の作物に積もった灰は、村人を困難に落としこむやもしれない。ついては、寺崎、片貝からの知らせを待つのではなく、こちらから見分の者を派遣する。
われの代理は辰蔵(たつぞう 14歳)、桑島友之助(とものすけ 50歳)を助役(すけやく)とし、書役(しょやく)2人は桑島が選ぶこと」
朝餉(あさげ)の白粥(しろがゆ)の席へ呼んだ辰蔵に、220石を賜っている武射郡(むしゃこおり)の寺崎村では、亡祖父・宣雄(のぶお 享年55歳)の若いころの働きで、80石を越える新田が拓かれてい、そこからのあがりの一部は、ここ40年近く、祖母・妙(たえ 58歳)の実家で村長(むらおさ)格の五左衛門家の別倉に蓄えられておるから、こんどの浅間山の降灰で作物が害をこうむり、食うに難儀がでた戸には蓄えの半分までは、村長の判断で与えてよいと伝えよ--。
180石を拝領している山辺郡(やまべこおり)の片貝村の村長にも、同様の許しをつたえるようにいいつけた。
登城を内玄関まで見送りにでた久栄が、
「駿河への旅から帰っていらい、気ふさぎがつづいている辰蔵の気持ちが、このたびの知行地行きで晴れれば何よりでございますが--」
「嫡男としての責任の果たしどころよ」
平蔵は、こともなげにいい放った。
営中には触れがまわっており、信濃、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、常陸(ひたち)、武蔵、上総(かずさ)、下総(しもうさ)に知行地をえている幕臣で、知行地へ被害の問い合わせをなしたい向きは、隔日の八ッ(午後2時)までに書状を、最寄代官所あての継飛脚便へ託すことができるということであったので、平蔵はさっそく、辰蔵らを見分に派遣するむねを2つの知行地へ報せる一文を寄託した。
公用の継飛脚なら、寺崎へも片貝へも1日のうちにとどいた。
下城の道すがらに茶寮〔季四〕へ立ち寄ると、降灰のせいで座敷の取り消しがあいつぎ、
「今夕は、せっかく仕込んだ料理がむだになります。召し上がっていらっしゃいませんか」
里貴(りき 39歳)のすすめで、腰をおちつけた。
配膳を手伝った奈々(なな 16歳)も、里貴にならい、仕事着を普段着に着替えて相伴することになった。
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