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2011.07.07

おまさのお産(10)

佐倉藩の江戸屋敷経由の志田数馬(かずま 30歳)からの書状には、忠助(ちゅうすけ)のむすめが出産をした家はすぐにとどけでがあった。
本佐倉(:現・千葉県印旛郡酒々井(しすい)町本佐倉)の農家・おかねのところであったが、姪・おまさは産褥の床あげをするとまもなく、ややの養育費をたっぷり預けて消えたという。
1ヶ月半も前のことであったらしい。

かねおまさの母親・おみつ(美津)の妹とも記されていた。

ちゅうすけ注】酒々井村のおかねのことは、『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]p111 新装版p118

嶋田宿で、おまさ(26歳)に似た黒い双眸(りょうめ)と心もち受け唇の本陣の若女将(22歳)から名はお三津(みつ )と打ち明けられたとき、耳にしたことのある名だとおもったが、
(そうだ、おまさの亡母がお美津(みつ)であった)

参照】2009年3月14日[東京都の出身と不明の盗人
2005年3月3日[女密偵おまさの年賦

おまさが産後1ヶ月ほどでややを預けて村を出ていったと知り、
(それほどに情が剛(つよ)いおんなとはおもわなかった)

平蔵はすぐに自分を訂正した。
(われとて、お嘉根(かね)を養女にだしたではないか)
育っていれば19歳---嫁にいっいるかもしれない年齢のお嘉根である。

猿使い師は〔口明神(くちみょうじん)〕の孫八(まごはち 45歳)と称しているとおり、佐倉城の東方、口天神の社がある将門(まさかど)郷の生まれで、猿芝居をしながらの旅まわりで稼いでいたが、2年ほどまえに生地へ戻り、2匹の猿とともに暮らしていた。

孫八を見張っていると、杓子尾余(しゃくしびよう)長屋の座頭・岩の市(いわのいち 40歳)を訪ねたので、両者を捕らえ、糾問したところ、罪状を吐いた。

猿に盗ませた32両(512万円)は折半してい、孫八はほとんどを使い果たしていたが、岩の市が寝間の床下に溜めこんでいた56両(896万円)から被害額をそれぞれの店へ戻し、残りは藩庫へ納めた。


この事件の終焉には、2つの後日譚があった。

その一。解決の経緯を言上された佐倉藩主・堀田相模守正順(まさあり 39歳 11万石 奏者番)の鶴の一声---
「余に恥をかかせるでない。件の家々から長谷川うじへの礼金をあつめよ」

5店はすんなりと1両(16万円)ずつ差し出した。
藩主・正順の産みの母の実家---町田多膳方だけは、その必要なし、と藩主の意見を無視したらしい。

この礼金にはおまけがついた。
佐倉町奉行所が、犯人・猿使いと岩の市を入獄させたが、実行犯の猿を牢に入れたのは前例がない。
ついては、猿の餌代として、戻し金のうちから1朱(しゅ 1万円)ずつ拠出させた。
猿たちはその前日に処分されてい、集まった1分1朱(5万円)は、志田数馬ほか、与力たちが軍鶏なべをつついた支払いに化けたとのうわさがしばらく消えなかった。

そのニ。佐倉藩の下知によるおまさの縁家探しで、労せずして酒々井村のおかねの所在を知りえた久栄(ひさえ 31歳)一行は、ほんのいっとき立ちより、ややの衣類をわたしただけで、さっさと成田街道へ戻り、不動への旅をたのしんだ。

与詩(よし 26歳)が久栄に洩らした言葉---、
(てつ)兄さんも、案外、知恵者だこと。佐倉藩を盗人探しにことよせてこき使ってしまったんですもの」
(旅には、おむつを忘れるなっていったのは許せない。ええ、おむつは持ちましたとも。でも、ぜーんぶ、おかねさんのとこのややへ置いてきましたよ、「てつ」って縫いとり文字をつけたのを---)

参照】2008年1月6日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (24) (26) (30

久栄・与詩たちの路銀は、被害店が差し出した礼金5両によっていた。
うち、1両(16万円)は平蔵のいつけで、猿使いと座頭の供養料として、平蔵の名で成田不動堂へ寄進された記録が新勝寺にのこっていた。

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