札差・〔東金屋〕清兵衛(2)
「100店からある札差宿は、10人の定行事(じょうぎょうじ)を頭(かしら)にいただいて組をつくっておりやすが、〔東金(とうがね)屋〕はその定行事のひとりでやすから、仲間内での信用もなかなかのもんで」
御厩河岸の〔三文(さんもん)茶房」の真ん中の大飯台の片隅で、平蔵(へいぞう 40歳)にささやくように声をひそめて告げているのは、〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)であった。
ここから8丁(900m)ばかり南へ行った両国広小路・米沢町裏のしもた家でかわら板を刊行してい、平蔵とは古いつきあいで、〔化粧(けわい)読みうり〕にもかかわっていた。
「海千山千の蔵宿衆から定行事に推されたということは、まとめ役としての器量が大きいとみていいのだな?」
「齢はまだ40歳そこそこで、〔伊勢屋〕〔大口屋〕〔笠倉屋〕〔板倉屋〕といったのれん分けの店が多いなかで、〔東金屋〕は清兵衛のとこ1軒きりというのからいっても、人柄が買われていようってもんで---」
紋次によると、札差屋の主人の中には金まわりがいいことを見せつけようと、新吉原で大尽遊びをするものもいるが、〔東金屋〕清兵衛は出入せず、組合の集まりも近所の料理屋で芸者も呼ばずにすませているらしかった。
「店はすぐそこ、諏訪明神さんの真向かいの3軒手前でやす。殿さまがじかに面体をおあらためになったほうが間違いございやせん」
(諏訪明神・三島明神 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
紋次のすすめに平蔵は、一瞬、乗りかけたが、
「いや、まだ早い。使いだててすまぬが、御蔵前の蔵宿の〔伊勢屋〕次郎兵衛の店の評判もあたってくれまいか?」
「〔伊勢屋〕次郎兵衛---たしか、東金組だったようにおもいやすが---」
平蔵は、〔東金屋〕清兵衛に会うことに決めた。
〔東金屋〕の店構えはほかの蔵宿と変わらず、間口3間(5.2m)ほどだが、奥行きは深そうであった。
紋次の顔をみさだめて用件を察した番頭が、奥へ主人を呼びに小走りに去った。
主人の清兵衛は、40まえ、ちょっと窪み目だが柔和に見えるようにこころしている男であった。
「西丸・お徒(かち)のお頭(かしら)の長谷川のお殿さまだ」
紋次が紹介した。
「ご栄進、およろこばしゅうございます。蔵前では、早ばやのご栄進をことおいでおりました」
清兵衛が卒なくあいさつを述べると、平蔵が笑いながら、
「いや。蔵宿衆は早耳よ。もう2軒から手まわしがあった」
「当店もごあつさつをとおもっておりましたが、ご知行米(ちぎょうまい)を佐原の伊能さまのお店を通しておさばきのようなので、ご遠慮しておりました」
「(伊能)三郎右衛門(のちの忠敬 ただたか 41歳)は蔵宿の株は持ってはいないはずだが---」
「恐れいりましてございます」
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コメント
伊能忠敬と長谷川平蔵が知行米を通じて結ばれていたとは。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.09.22 05:23
>左兵衛佐 さん
たしかに、文通はあったようです。もっとも、忠敬が地図づくりにのりだす前のことのようですが。
投稿: ちゅうすけ | 2011.09.22 06:06