「朝会」の謎(3)
泉藩(福島県いわき市泉)の藩主・本多弾正少弼(しょうひつ)忠籌(ただかず)については、人足寄場がらみで当ブログで紹介したことが2,3回あった。
【参照】2007年2月23日[人足寄場の専用舟]
2007年9月2日[隠密、はびこる]
藩財政の建てなおしのために、自ら、朝晩は米飯のみ、昼は一菜で範をしめしたことはすでに紹介した。
元文4年(1739)12月8日の生まれで、嫡母は松浦肥前守篤信(あつのぶ 享年22歳)の三女で、のち離婚。
(よそごとながら、22歳で逝った篤信は11男8女をもうけていたように『寛政譜』が記している)
忠籌(幼名・雄之進 ゆうのしん)が16歳で家督(1万5000石)したものの、父・忠如(ただゆき)が遠江・相良から泉へ転封したときの費用などによる借財が大きくたまっていた。
前記の節約ぶりで、27年後の天明元年(1781 43歳)には、借金を完済していたばかりか、1万両(16億円)の蓄財もできていた。
定信(さだのぶ)が接触をもとめてきたのは、このころであろうか。
【参照】2012年1月2日[「朝会」の謎] (2)
というのは文化元年(1804)の『武鑑』に、泉藩の参勤交代での参府は子、寅、辰、午、申、戌の6月とあった。
これを天明年間にあてはめると、2、4、6、8年となる。
いっぽう、定信の白川藩のそれは、卯、巳、未、酉、亥の5月だから、
同じく天明年間においてみると、1、3、5、7年となる。
つまり、定信が家督した天明3年(1783)10月16日以降だと在府のときには、忠籌はほとんど泉にい、2人はかけちがってばかりであったということになる。
2人が顔をあわせえたのは1ヶ月あるかなし。
これまで目にした定信かかわりの諸書がまったく触れていない『徳川実紀』による「朝会」の謎]に気づいたのは、一昨日であった。
【参照】2012年1月1日[「朝会」の謎] (1)
これでもっとも可能性が高いのは、定信の家督以前……定信が田安の屋敷か白川藩の上屋敷にいたときと推察しているのだが、どんなものであろうか。
ついでに指摘しておくと、『宇下人言』に名をつらねていた10人前後の若手譜代大名の参勤についてはまだ調べていない。
b;s
これからいって、心友(しんゆう)の何人かには、かけちがいの藩主がいたにちがいない。
それはともかく、定信は2年後に宿老(老中)、少老(若年寄)を組閣したとき、「勝手(財政)は本弾どの、政治はわれ---」との方針をうちたてた。
(本多弾正少弼忠籌の個人譜)
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