天明5年(1785)12月の平蔵(2)
白河藩主の松平(久松)越中守定信(さだのぶ 28歳)が念願の溜間(たまりのま)詰めをかちとったということを耳にしたとき、平蔵(へいぞう 40歳)はえもいわれない不安にとらわれた。
たとえは悪いが、うすら寒い暗闇のなかを手さぐりで歩いていて、深い穴におちる心配をしつづけていなければならないような不気味さと似ていた。
「よろしいのですか、相良侯?」
こう問いかけたみたかったが、定信の溜間詰めの決議には、老中としての田沼主殿頭意次(おきつぐ 67歳)が署名しているはずである。
主殿頭に問いかけるわけにはいかない。
なんでも相談できた佐野豊前守政親(まさちか 51歳 2000石)派は大坂の西町奉行としていったきりである。
こういうときに指針をくれる贄(にえ) 越前守正寿(まさとし 40歳)は町奉行として堺で善政を行っていた。
頼りになる建部(たけべ)大和守広殷(ひろかず 58歳 1000石)は禁裏付だ。
(白河侯の隠密がわれの身辺をさぐってい、両手両足をもぐようにしているのではないか)
平蔵は苦笑した。
たとえ、身辺をさぐられていても、白河侯は一親藩の領主にすぎず、幕府の高官の人事に容喙できるはずがない。
できるとすると---
一橋の民部卿治済(はるさだ 36歳)。
ここへきて、平蔵は里貴(りき 逝年40歳)を失ったことの大きさをおもいしり、呆然となった。
里貴が一橋南詰の茶寮〔貴志〕をいまなおつづけておれば、それなりの風聞が流れてきたはずだ。
(逝者の齢をかぞえてどうする?)
平蔵は同朋(どうぼう 茶坊主)に封書をもたせて本丸の小姓組6の組の番士・浅野大学長貞(ながさだ 39歳 500石)のもとへやり、厳封した返事をもらってこさせた。
浅野家は、赤穂の内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり 切腹35歳)から分家した弟が起家しており、長貞は4代目であった。
平蔵と長貞は初見が同じで、以来、盟友として交際していた。
飯田町の中坂下の料亭〔美濃屋〕でおちあった。
亭主の源右衛門が2人に酌をしてそうそうに退(さ)がると、
「大(だい)。本城では白河侯の溜間詰めをどうみておる?」
「どうみておるもなにも、あれは先代・定邦(さだくに 60歳)侯のときからの念願の殿席だよ」
「しかし、定邦侯のときにはお許しがでなかった---」
「同じ久松松平といっても、伊予松山藩は15万石で久松家の本筋の家柄---
ーーーその伊予松山へ、田安家から定信侯の実兄・定国さまが養子にはいられ、溜間詰めとなられた。これを定信侯としては黙視できなかったのであろう」
「いや、兄弟競いあいは馴れあい芝居かもしれない」
「しかし、定国さまは白河侯のことを精子惜しみ---と笑っておられるそうな」
「精子惜しみ---?」
「定信侯はおんなお抱きになってもお子ができるころあいしか射精なさらないないらしい。引きかえ、定国さまは、双方がまぐわうためのものだとおっしゃっておる」
「そのことでは、われは定国侯側につく---」
「は、ははは。政事と性事をいっしょにしてはいかん」
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