火盗改メ本役・堀 帯刀秀隆の組替え
(肌はあさぐろくずんぐり、声のみが高かった、無遠慮な、あのご仁がなあ)
平蔵(へいぞう 40歳)は、4年前に九段坂東の中坂下の席亭〔美濃屋〕で、火盗改メ・本役に就任した贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 41歳=当時 300石)が助役(すけやく)の堀 帯刀秀隆(ひでたか 46歳=当時 1500石)、増役(ましやく)の建部(たけべ)甚右衛門広殷((ひろかず 54歳=当時 1000石)を紹介されたときの、堀の印象をおもいうかべていた。
(左の坂=九段坂に向かい右手=中坂 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)
初老の狸(たぬき)といえる風貌であったが、とりあえず、下の【参照】(1)だけでもクリックして記憶をよみがえらせていただくと話しがすすめやすいというもの。
【参照】2011年4月4日~[火盗改メ・堀 帯刀秀隆] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
【参照】(1)にも、ちらと書いたが、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭であった堀 帯刀は、天明5年(1785)11月15日に火盗改メ・本役を仰せつけられ、即日、弓の7番手へ組替えを命じられた。
もっとも、『徳川実紀』は、組替えには触れていない。
十一月十五日先手組頭堀 帯刀秀隆盗賊考察の事承る。
よけいごとを記しておくと、このことを報じている『(1972.02.01)実紀 第十篇』の278~9ページの月表記は「十一月」とすべきところが「十 月」と「一」が脱落しているので、今後の研究者のために。
『実紀』は組替えには触れていない。
公けのことではないと編者たちが判断したのであろうか。
堀 帯刀秀隆の火盗改メ・本役発令をしった長谷川平蔵宣以は、2年後に自分が堀 本役とともに火盗改メ・助役(すけやく)を務めることになろうとはおもいもしなかったろう。
というのも、火盗改メは先手組頭から選抜されるしきたりで、平蔵は西丸・徒(かち)の頭(かしら)に抜擢されてまだ1年経っていなかったからである。
いかに自信家といえども、徒の頭は2年以上---たとえぱ、平蔵が属していた西丸・徒の4の組頭の前任の5人の平均在職年数は11年強---であったから、平蔵としても6,7は覚悟していたとも推定できる。
とにかく、贄 壱岐守の引きあわせで面識ができていた堀 帯刀が、先手頭に指名されたというので、平蔵は酒の角樽を用意して祝辞をのべに裏猿楽町の屋敷を訪(おとな)い、驚いた。
玄関の式台に用人と名乗った貧相な男があらわれ、角樽を受けとり、
「主人がよろしくと申しております」
それだけであった。
「なんです、あいつの態度は---?」
門を出ると、松造(よしぞう 35歳)が唾をはきながらつぶやいた。
「松。言葉をつつしめ。まあ、ああいうのを虎の威を借りるやからというのだ」
「しかし、殿。堀 さまは殿の先達でもなければ引き立て人でもありません」
「そう、怒るな。腹を立てた分だけ腹が減って損をみるのはこっちだ。もっとも、堀 さまは家禄が1500石、先手組頭の格も1500石だから、足(たし)高なしの持ち高勤めで足(あし)が出ているのがご不満なのであろうよ」
(堀 帯刀秀隆の個人譜)
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