小笠原若狭守信喜(のぶよし)(6)
信喜(のぶよし)が小笠原家へ養子に入ったのは、養父にあたる当主・三右衛門信盛(のぶもり 800石)が近侍していた吉宗にしたがって江戸城入りして19年目に、小納戸から留守居番に転じた享保19年の10月であった。
このとき、養父・三右衛門はすでに病死(享年53歳)していたから、いわゆる末期養子の形といえる。
三次郎信喜は16歳であった。
末期養子の形となったのは、信喜の前に養子が入っていたからである。
紀伊藩士・野田半右衛門正守(まさもり)の息・伴蔵なにがしであったが養父・信盛よりもさきに病没したので、内々、次なる養子としては信盛の次弟・政周(まさちか)が養子としておさまっていた紀州家藩士・大井家からその子・三次郎信喜が候補筆頭にのぼっていた。
血筋でいえば「行って、来い」だし、とりわけ三次郎は聡明で、理非を見きわめる冷静さをそなえており、眉目も端麗であった。
元文2年(1737)12月25日、西丸の小納戸として出仕。この日に布衣をゆるされた(19歳)。
(たちまち、言語不明瞭な家重(26歳)の意思を解し、気にいられたのであろう)
1年後には小姓組番士(20歳)。
ここで信喜は同い齢だが、同職は3年先任で従五位下主殿頭に叙任していた田沼意次(おきつぐ)に出あった。
とうぜん、畏敬とともに、競争心というより敵愾心をおぼえたろう。
はっきりしない家重の言語をくみとるのも、意次のほうがたくみであった。
面もちの秀麗さでも相手がまさっていた。
意次はそつがなかった。
「三次郎どのよ。同齢ということは、われら二ッ児(ふたつご)のようなものとこころえ、ともに奉公にはげもうぞ」
意次が示したのは、2ヶの珊瑚珠であった。
それぞれに[智]と[仁]の字が彫られていた。
「おことはいずれを採る?」
信喜は[智]をえらんだ。
「よかろう。おことは[智]をもってお上に仕えよ。われは[仁]のこころで奉公する」
ことあるごとにお互いの珠を示してはげましあった。
元文4年(1739)、信喜(21歳)も若狭守に叙勲し、格は意次とならんだ。
しかし、この年、信喜は意次に「負けた」とおもいしらされた。
湯島天神の矢場の矢取りおんなを張りいあい、意次にとられたのであった。
とられたというより、九美(くみ 17歳)が意次に身をまかせた。
「三次さんより竜助さんのほうが剛(つよ)そうって、おんなにはわかるの」
九美のこの評価で喪失した信喜の男としての自信は、永らく回復しなかった。
隠居した吉宗に替わり、家重(いえしげ 34歳)が本丸の主となった延享2年(1745)、2人(27歳)そろって本丸の小姓組へ移ったが、ここでは1年半後に信喜のほうが半年ばかり早く番頭の格と新恩1200石をえ、自信がよみがえらせた。
もっともそのからくりは数年後に、信喜のことに気をくばった意次が、その昇格ばなしをゆずったのだとわかり信喜をしょげさせた。
若いころはおんなの競りあいと肩書きの重軽が気になるのは、古今の例であろう。
寛延元年(1748)閏10月朔日、意次(30歳)は小姓組の番頭となり、1400石加増とともに奥のことも兼ねるようにいわれているので、鼻の差だけ出たといえようか。
宝暦元年(1751)7月18日、2人(33歳)はとも並んでに家重のお側に任じられた。
(小笠原若狭守信喜の個人譜)
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