小笠原信濃守信喜(のぶよし)(3)
きのう引用した『林陸朗先生還暦記念編 近世国家の支配構造』(雄山閣出版 1986)に収録されていた高澤憲治さんの論文[松平定信の入閣をめぐる一橋治済と御三家の提携]は、こんな書き出しで始まっている。
寛政改革は、松平定信を前面に立てた徳川一門・譜代勢力が、反田沼的風潮のはげしい人民蜂起を背景にして田沼派に圧力をかけ、その最後の牙城である将軍側近役人の排除に成功することにより開始された。
そして、徳川一門・譜代勢力の中核的役割を果たしたのは将軍実父である一橋治済であった。
彼にとって御三家は、いわば新興勢力である田沼派の幕閣に圧力を加えるための譜代派の表看板であり、治済はその裏で、別に将軍側近役人である御側御用取次の一人小笠原信喜を掌握して幕閣内部の動きを把握し、また田沼政治の匡正、定信の老中実現に努めていたのである。
この論文の典拠を高澤さんは、深井雅海さん[天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所研究紀要 昭和五六年度)に拠ったと注記している。
じつは、深井雅海さんの論文が掲載されている『徳川林政史研究所研究紀要』を都中央図書館へ読みに行こうとおもっていた矢先の入院・手術・療養だったので、まだ手配していない。
しかし、徳川林政史研究所の所長が大石慎三郎さんであったこと、深井さんが国史学会のメンバーであることなどから、おおよその内容は推察できるが、『紀要』が昭和五六年度(1981)という時期のものであることに一種の畏敬をおぼえていた。
つまり、大石さんを先鋒とする、日本の学界では数少ない田沼意次の偉業見直し派の視点による天明・寛政史が正確に描かれていると楽しみにしていたのである。
しかしいま、身は病室にあるので、自宅療養の日までおあずけである。
さて、深井雅海さんも会員である国史学会の季刊『国史学』誌の3つの号に高澤さんが発表した3つの論文を主題の時系列にしたがって列記すると、
松平定信の幕政進出工作 第176号(平成14年4月 2002)
田沼意次の追罰と松平定信政権 第171号(平成12年4月 2000)
松平定信政権崩壊への道程 第164号(平成10年2月 1998)
初段の定信の[幕政進出工作]に、謀議のために参会した月日と出席者の主だった顔ぶれと話題が表にして掲出されている。
天明5年(1785)9月28日を一例として借用すると、参会場所は牧野備前守忠精(ただきよ 26歳 越後・長岡藩主 75000石)の外桜田の上屋敷。
主だった参会大名は忠精は当然として、松平伊豆守信明(のぶあきら 26歳 ・三河・吉田藩主 7万石)、加納遠江守久周(ひさのり 33歳 伊勢・八田藩 1万石)など。
話題。
・乱舞の効用。
・大名の心得。
・君への忠誠心。
・家臣への対応。
・主人も政令を守るへし。
・後代を考慮、文庫金ほ存続。
・家臣の勤務を不時に視察。
・信明。牧野、加納という多様な性質が組み合わされば将軍の為になる---
といった政党の青年部会の懇談程度のものであったが、秘密に集まり自由に吐露したというだけで興奮していたのだから、他愛もない。
記述に奇異な感じをいだいたのは、権力奪取の謀略戦は、野戦や城攻防戦とは異なり、その手口や経緯があからさまになるような痕跡をのこしていいのかとおもうからである。
城攻めだって調略が併用される。
調略が城兵方につつぬけになっては、裏切りの主は生かしておかれまい。
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