江戸・打ちこわしの影響(3)
昨日、引用させていただいた竹内 誠さん『寛政改革の研究』(吉川弘文館)は、刊行日2009年7月10日.となっていて、ごく 最近の著のように見えるが、ご三家の会合の年月日の表が発表されたのは、同著「あとがき」によると、ほぼ40年前、国史の専門誌『史海』に「寛政改革の前提――天明の打ちこわしと関連して――」と題してであったと。
おおっ……とおもいつき、深井雅海さんの研究「天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割」が徳川黎明会の徳川林政研究所の『研究紀要』に掲載された号をあらためた。
昭和56年度(1981)――ほぼ、10年ほど後であった。
ということは、深井さんは竹内さんの研究に触発されて史料発掘と考察とすすめたともいえないこともない。
学問的にはまったく脈絡はないのだが、もうひとつ、おもいつき大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波書店)の刊行はと、奥付をあたった。
単行本は1991年、現代文庫は2001年であった。
(単行本と重ねて文庫も購入しているのは、書斎でちょっと調べたり旅先に携行したりするためである。それほど深く触発された。重ねて文庫も購っているのは、ほかには宮崎一定さん『論語の研究』ぐらいかな)
さて、本旨にもどり――
『寛政改革の研究』で竹内 誠さんは、これは「水戸家の記録を分析した菊池謙三郎氏の実証的業績(「松平定信入閣事情」(『史学雑誌』)26編1号)だがとことわって、田沼意次の老中解任から松平定信の老中就任までの10ヶ月間の幕府内部の動きを日づけ順に展開している。
天明6年(1786)
8月27日 田沼意次、老中解任さる。
10月24日 一橋治済、水戸治保宛書簡にて、実直にして才力のある者を老中に推薦したき意を表す。
閏10月6日 一橋治済、尾張宗睦・水戸治保宛書簡にて、松平定信を老中に推薦す。
12月15日 御三家より大老井伊直幸らに対し、定信老中推薦の意見書を提出す。
天明7年(1787)
2月朔日 大奥老女大崎、江戸尾張邸訪問の節、内々に定信老中の件、拒絶の趣を伝う。
2月28日 御三家登場の節、老中より正式に定信老中の件、拒絶の回答あり。
(5月20日~24日、江戸・打ちこわし)
5月24日 御側申次本郷泰行、解任さる。
5月29日 御側申次横田準松、解任さる。
6月9日 大奥老女大崎、尾張宗睦宛書簡にて、定信の老中就任承諾の趣を内報す。
6月19日 定信、老中就任す。寛政改革始まる。
さらにつづけて補うと、
7月17日 本多忠籌、御側となる。
9月1日 井伊直幸、大老解任さる。
天明8年(1788)
3月28日 水野忠友、老中解任さる。
4月3日 松平康福、老中解任さる。
4月4日 松平信明、老中就任す。
天明7年5月の江戸・打ちこわしの最終日に御側取次・本郷大和守泰行(やすあき 43歳 2000石)が、同月29日に横田筑後守準松(のりよし 53歳 9500石)が罷免されたことで、田沼派の敗色が決定的となった。
この対戦を譜代派と新興派、農本派と商業派の政治的覇権争いとみる見方以上に、賄賂政治の敗北という倫理感の勝敗とする説も少なくはないし、それはそれで正論であろうが、その裏側には一橋治済(はるさだ 38歳)のどす黒く異常な権力欲の術策にのせられた喜劇とみては冷静さを欠いていようか。
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