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2012.05.08

ちゅうすけのひとり言(94)

手術から約2ヶ月半、ブログを始めてから丸7年半、1日も休まずにつづけてきたが、そろそろ、幕をおろす時期が近いようだ。

この3ヶ日、微熱がつづき、右のわき腹下に疼痛が走りはじめてきた。

このところ気になっていたある発見を記しておいたほうがよさそうだ。

すでに脇から踏みだしているが、天明7年5月の全国にひろがった打ちこわしに関連した先手組10組の鎮圧動員の推察にかかわる疑問についてである。

ほんとうに10組であったのか?
ただし、これは、歴史学には素人のちゅうすけにとっての疑問であって、学者の方々にとってはとるに足らないことかもしれない。

学会では問題にもならない些事だから、これまでだれも問題にしなかったのであろう。

続徳川実紀』の天明7年(1787)5月23日の項にこうある。
( )内のデータの補充と組分け数字とその訂正はちゅうすけによる)


先手・弓組
2長谷川平蔵宣以    (のぶため 42歳 400石)
6松平庄右衛門穏光  (やすみつ 60歳 930石) 

先手・鉄砲(つつ)
7安部平吉信富     (のぶとみ 59歳 1000石)
6柴田三右衛門勝彭  (かつよし  64歳 500石)
16河野三右衛門通哲  (みちやす 64歳 600石)
19安藤又兵衛正長   (まつなが 60歳 330石)
17小野次郎右衛門忠喜(ただよし  55歳 800石)
2武藤庄兵衛安徴    (やすあきら47歳 510石)
9鈴木弾正少弼政賀  (まさよし  48歳 300石)

西丸・先手・鉄砲組
4奥村忠太郎正明    (まさあきら56歳 600石)

このほど市井騒擾により、今日より市中相巡り、無頼の徒あらばめしとらへ、町奉行の庁へ相渡すぺし。手にあまりなば切捨苦しからざるよし達せらる。
こは、近年諸国凶作うちつづき、米穀価貴くして、去年は関東洪水にて江都別して米穀乏しく、諸人困窮に及び末々餓死に至らんとす。しかるに市井の米商ども人の苦しみをかへりみず、をのをの米を買い込みしにより、無頼の輩集りて、左ぬる二十日の夜より市街の米商をうち毀り家財等を打ち砕きしにより、かくは仰出されしなるべし。


この名簿で、最若年の平蔵がまっ先にあがっているのは、先手組は弓が鉄砲よりも格式が上とされているからである。
武器としてき鉄砲だが、それが渡来以前は騎馬武士から大将まで弓を引いた。
鉄砲は雑兵のあつかいと軽んじられた。
日本武将による美意識だったのであろう。

年長で禄高も上の松平穏光よりも先に書かれているのは、組頭への発令が平蔵のほうが数ヶ月早かったから。
同じ職位では先任順に席をきめた。

だからといって、平蔵が総指揮をとったわけではない。

発令順でいうと、鉄砲組も河野通哲をのけると発令順になっている。
通哲が順をみだしている理由は不明。


つぎの名簿はちゅうすけが、『柳営補任』などによって作成したもので、先手組頭への発令年月日を添えた。


先手・弓組
2長谷川平蔵宣以(天明6(1786)年7月26日ヨリ)
6松平庄右衛門穏先(天明6年11月15日ヨリ) 

先手・鉄砲(つつ)
7安部平吉信富(安永5年(1776)5月10日ヨリ)
6柴田三右衛門勝彭(天明元年(1781)11月12日ヨリ)
16河野三右衛門通哲(天明5年(1785)11月15日ヨリ)
19安藤又兵衛正長(天明2年(1782)12月12日ヨリ)
17小野次郎右衛門忠喜(天明3年(1783)8月14日ヨリ)
2武藤庄兵衛安徴(天明4年(1784)10月28日ヨリ)
9鈴木弾正少弼政賀(天明7年(1787)正月11日ヨリ)

西丸・先手・鉄砲組
奥村忠太郎正明(天明6年(1986)閏10月8日ヨリ)


疑問は、『柳営補任』をめくっていておきた。

とりあえず、疑念のない先手・弓組の2人の記述を引用する。


長谷川平蔵宣為(以 ため)

天明六年七月廿六日西丸御徒頭ヨリ
同七未五月組召連可相廻旨
同六月一統御免、同十一月ヨリ増加役
同八申四月廿九日御免、同年十月二日定加役
寛政七卯五月十六日病気二付願之通火附盗賊加
役御免、久々骨折相勤候二付金三枚、時服二被
下之、悴辰蕨儀1 蕨出精相勤候二付、雨御番政
御番入被仰付
同年五月十五日卒

うち、次の2行が騒擾鎮圧にかかわっている。

同(天明)七未五月組召連可相廻旨
同六月一統御免


松平庄右衛門親遂

天明六午十一月十五日小十人頭ヨリ
同七未五月廿三日組共召連相廻候様
同六月十八日御免
寛政二戌九月廿六日卒


鎮圧令の発令は、(天明7年)5月23日
解除されたのは、 同6月18日
であったことがこれでうかがえる。


河野勝左衛門通哲

天明五巳十一月十五日他組ヨリ組替
同七未五月町中相廻り候様
同七月三日卒

病身をおして鎮圧に努めたのであろうか?
それとも、与(くみ)頭が代理の指揮をとったか?
没年は7月3日とあるが、これは辞任願いが受け取られた表向きの月日で、じっさいの臨終の日は6月下旬であったろう。
寛政譜』に出動のことが記されていないのは、与(くみ)頭が指揮を代行したからか?


小野次郎右衛門忠吉(喜 よし)

天明三卯八月十四日西丸御目付ヨリ
寛政十午二月十七日御鎗奉行

天明7年5月23日から6月13日までの記述がまった欠落しているのは、幕府史料に欠落していたからか? それとも出動令を受けなかったか?

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