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2012.05.04

本城・西丸の2人の少老(3)

手くばりが終わったとみ、一足飛びに天明7年5月に移る。

先手組が詰めることになっている寺社――伝通院、寿松院、深川八幡宮への通達は、若年寄・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 与板藩主)が、寺社奉行・(大河内松平右京亮輝和(てるやす 38歳 上野・高崎藩主)に耳うちし、それぞれへ極秘裏に話が通じていた。

参照】2011年10月9日[日野宿への旅] () 
2011年10月21日~[奈々の凄み] () (

町奉行へひと言伝えればなんでもない南伝馬町会所のほうが、直前ですったもんだもめた。
原因はつなぎ(連絡)役の西丸若年寄・松平玄蕃頭忠福(ただよし 46歳がうっかりしていて4月に入ってから南の町奉行・山村信濃守良旺(たかあきら 60歳 500石)に申し入れただけで、北の町奉行・曲渕甲斐守景漸(かげつく 64歳 1650石)へ通じておくのを失念していたからである。

その手ぬかりは、江戸での打ちこわしが突然始まった5月20日夕刻に、先手・鉄砲の7と17の組が現場へ到着゜してわかった。
暴徒だというので、自発的に出動した安部組、小野組へ鎮圧命令がでたのも2日遅れた。


じつは平蔵(へいぞう 42歳)は、5月11日に大坂の堂島の米市場で打ちこわしがおこったことを、江戸の幕府の要人の誰よりも速く承知していた。

大坂・西町奉行の佐野備後守政親(まさちか 56歳 1100石)が事件についての第一報を公用の速飛脚でとどけてきたとき、ひそかに平蔵への書簡も同封していたのであった。

それで平蔵は、大坂の打ちこわしの噂が江戸へ達するのは少なくとも15日後――26日か27日とふみ、9組の同輩にはそのことをささやいておいた。

それが、佐野政親からの公用文書を落手した日の午後八ッ(2時)すぎ、赤坂門外の米穀商〔伊勢屋〕ほか23軒、つづいて麹町の6軒ほどが襲われたのにおどろくとともに、井伊兵部少輔直朗に、先手組頭たちを予定どおりのきめられた警備につかせるよう命令をくだしてほしいと告げた。

ところが、赤坂の米穀店の事件が大坂のと堂島の打ちこわしと関連があると察した幕閣はいず、もうすこし様子をみてといっているうちに大事になった。

あわてた幕閣は、北町奉行・曲渕甲斐守と火盗改メ・堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石)に鎮圧命令をだしただけで、先手組を忘れてしまった。

自主的に伝通院の堂宇へ詰めた平蔵は、大坂の飛び火があまりにも早く江戸へ達した経緯(ゆくたて)を、沈思しながら出動命令をじりじりしながら2日間も待った。
(幕府のお偉方ときたら、梅雨の雨のようにはっきりしないんだから)


その間、江戸のあちこちでは、暴徒がおもいのままに乱暴をはたらいていた。

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