天明7年5月の暴徒鎮圧(3)
騒擾(そうじょう)は5日目――5月24日の午前中に熄(や)んだ。
とはいえ、先手の10組が詰所を引きはらったのは、7日目の夕刻で、出し遅れた出動命令のぶざまを糊塗(こと)するかのように、平静にもどった町中を2日間、巡行しているのも、なんとなく滑稽であった。
組の指揮は6番手の組頭・松平庄右衛門親遂(ちかつぐ 60歳 930石)にまかせた平蔵(へいぞう 42歳)は、本城・控えの間で少老(若年寄)の一人・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 与板藩主 2万石)とひそかに対面していた。
直朗は、平蔵が暴徒の一隊の惣代・掛川藩浪人の吉田喜三郎(きさぶろう 30がらみ)とつなぎ(連絡)をつけ、そこから集団の惣代たちと頭取の談合にむすびついたことを手柄と認めてくれた。
「頭取やらとかの意見書は目安箱に入っておりましたか?」
「入っておったが、ご用取次の小笠原どのが封もきらずにお上へおとどけになった」
「小笠原さま……_」
「そう、若狭(守信喜 のぶよし 69歳 7000石)どのとすれば、大老・井伊掃部頭直幸(なおひで 59歳 彦根藩主)どのにとどけ、同僚先任の横田筑後守準松(のりよし 54歳 6000石)どのへ預けたらしい」
このとき、堺、淀、伏見、大津、駿府、甲府、奈良などの幕府直轄の地でも打ちこわしが起きている(竹内 誠『寛政改革の研究』(吉川弘文館)しらせを受けていた井伊大老は、暴徒頭取の意見書に事件終焉の糸口をみたであろう。
また、打ちこわされた江戸の米穀店500店、参加した江戸・下層民の数は24組、延べ5000人と概算されているが、刑に処されたのは42人で、しかも裏長屋住まいの細民がほとんどとの記録がのこされている。
刑も追放がほとんどで、農民一揆の発頭人の重刑にくらべると、ごくごく軽かった。
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