〔荷頃(にごろ)〕の半七
『鬼平犯科帳』文庫巻10に収録の[五月雨坊主]で、仲間に刺され、絵師・石田竹仙の家の裏庭へ転がりこんで息絶えた盗人。
年齢・容姿:42,3歳。町人風。
生国:越後国古志郡荷頃村(現・新潟県栃尾市荷頃)。
探索の発端:上記したように、湯島の妻恋明神の裏手に住む石田竹仙の裏庭へ、転がりこんでいて、抱きかかえた竹仙の顔をみて「く、九兵衛どん。武助(ぶすけ)に、やられた---と、十日のお盗(つと)めは、だめ---」と告げたあと、そのまま命が絶えた男がいた。
盗人の前歴のある竹仙ゆえ、「お盗め」の言葉に、すぐさま、男の似顔絵を描いてから番所へとどけ、似顔絵は鬼平の許へ持参。
その似顔絵に、鬼平の発案で描いた竹仙の自画像を加えて、同心・密偵たちの聞き込みがはじまった。
結末:意外なところから、竹仙の自画像に似た者が、道灌山の貧乏寺の寺僧と知れ、火盗改メが踏み込むと、越後から岩代、信濃にかけて荒らしまわっている〔羽黒〕の九兵衛一味が潜んでいた。早くから江戸へ流れてきていた〔荷頃〕の半七と組んで、江戸でのひと仕事をたくらんでいたのである。
ところが、女房を半七に寝取られた一味の武助が、そのうらみを晴らすために半七を刺殺した。
捕らえられた〔羽黒〕の九兵衛一味6人は、たぶん死罪。
つぶやき:栃尾市行政管理課 広報広聴係の石丸さんからのメール。
戦国の武将・上杉謙信の旗揚げの地・栃尾には、静御前、那須与一、酒呑童子と茨木童子、弘法大師など、かずかずの伝説があり、語り継がれていますが、『鬼平犯科帳』巻10に登場する〔荷頃〕の半七に関する伝説は、残念ながらありません。
『栃尾市史』は、「中村検地帳」(慶長3年[1598])の栃尾郷に濁(荷頃)村の名前が見えていることを報告しています。
『栃尾市史 別巻2』は、荷頃は栃尾市街地の南西約4キロに位置し。「北荷頃・一之貝・軽井沢・比礼・本津川の五集落で旧荷頃村を形成」していたといいます。北荷頃の開村を大同3年( 808)とする伝承もあり、縄文土器も出土しています。
『鬼平犯科帳』の時代に近いといえる天保12年(1841)の戸数は 147、人口は 919人です。
明治10年(1877)の荷頃を地誌は、田は23パーセント、畑が約14パーセント、山林61パーセントとも報じ、稲作のほかに大豆・小豆・栗・蕎麦・里いも・大根を記します。秋には広瀬辺(北魚沼郡)から炭を買って長岡藩の家中へ入炭もしていたとも。
栃尾縞紬の創始(天明から寛政のころ)の地としても記録されています。
荷頃村が市に合併されたのは昭和29年(1954)6月1日でした。
池波さん着用の縞紬は、もしかしたら『蝶の戦記』で越後を取材したときにもとめた栃尾産だったのかも。
栃尾市の名産・紬の着物(市のパンフレットより転載)
2006.08.31にいただいた、ミク友のレンさん(三条市在住)からのメール---。
栃尾は古い歴史を持つ土地としての良い意味での誇りのある町です。
やはり長尾景虎の影響でしょう。
栃尾は文化度も高く、いい人達が多いので、
そこに育っタのに、荷頃の半七の性格はちょっといただけません。
荷頃の半七は、早いうちに江戸へ行ったと思いたいのですが、あのわずかなセリフの中に「あきらかに国訛りがあった」とあり、でも「江戸にくわしい半七の手引きで」ともあるし、栃尾ではないけれども、越後に普段はいた、ということになるのでしょうね。
そんなに越後は国訛りがあるかな……、と自分の訛り具合がわからないので、ちょっと落ち込んでみたりしています……。
また羽黒の九兵衛も国訛りがあるというけれども、羽黒が中条だとすると、荷頃の半七とは方言が違うので、同じ越後人としての仲間意識を持てたのかどうか……。
(中之口村羽黒だと、ほぼ同じ方言になります)
でも、そうすると鳥坂の武助の方言が違う……。
標準語、いえせめて江戸弁で話さないとたった7人とはいえ、会話ができないような気がします。
(ところで、一味は生きていれば7人、というのは合っているのでしょうか?
荷頃の半七、羽黒の九兵衛、他5人の手下、ですが、引き込みのはずの長五郎が、夜に盗人宿の天徳寺にいることになってしまいますが、いいのかしら、と思ってしまいました。
予定の押し込みは諦めた、ということなんでしょうか。)
そう思って調べたところ、栃尾には荷頃の他に、鳥坂という棚田、羽黒山(羽黒神社)がありました。
http://www.pref.niigata.jp/doboku/engawa/sosiki/seibi/toshiseisaku/keikan5/nourinkank
you_ka/index.html
http://www.city.tochio.niigata.jp/kankou/zinzyabukkaku/zinzyabukkaku.html
もしかしたら、一味は全員栃尾出身かもしれません。(2つのグループのようですが)
女房とったりしているあたり、年も近そうですから、意外と幼なじみだったとか。
それで、「短刀で二突き刺し」た程度だったのかもしれません。
また武助も「何喰わぬ顔で」参加しているあたり、やなやつだと思うのですが、それに気づかぬ、九兵衛も九兵衛。
仲間意識が強く、よそ者には排他的な越後人の気質もでているような……。
他の盗人の仲間割れの話ではもうちょっと裏読みもするし、ドロドロと黒く、緊迫したシーンが多いような気がします。ここでそんなシーンは、忠吾が首を絞められるところだけかと。
mixiの日記でも書きましたが、越後人の基本は、「恥ずかしがり屋」で「人がいい(自嘲的な意味で)」ので、どの盗人もすべてを素直に信じてしまっているところがあるようにも感じます。要するに田舎者なんですね。
個人的には、武助の女房というのが、性悪だった可能性も高いかと。
だいたい仲間割れは女性が原因、と言われていますし、いつの時代にも、どこの土地でもこういう人はいますから……。
この女房は、およねとか、お今のような、少しノーテンキで優しい人だったら、彼らの人生も違ったのでしょうねぇ。
こうしてみると、越後には男も女もいい人がいないじゃないか、と思いましたが、盗人ばかりだから、しょうがないですね。
大物が少ないのも、現代の新潟と一緒……。←残念です。
善達がかろうじて、善人風、といったところでしょうか。
その善達をみても、「越後の男は、昔からあばら骨が一本足りない」と言われている通りのような気がします。「人がいい」越後人丸出しです。
池波さんが、そこまで越後人を分析して書いていらっしゃるわけではないと思いますが、なんとなく、彼らは越後人らしいな、と思いました。
羽黒の九兵衛の、越後の他に岩代と信州、というのがちょっと驚きました。
本拠地をどこにするかにもよりますが、どちらも遠すぎるような気がします。
せめて会津若松か、上州だったらわかるのですが……。
それにしても、この話、忠吾がいじめられすぎのような気がするのは私だけでしょうか……。
旧栃尾市荷頃の遠景写真の画像です。
北荷頃の北側の方です。
建物が建っているあたりが荷頃の中心地です。
木が多く、写真を撮れるところがなくて、こんな写真になってしまいました。
写真を見ると、「のどかな田舎」程度に見えますが、冬は相当厳しいですし、川の氾濫も多かったようですし、
ここに着くまでの道程はどこから行っても山越えですので(旧栃尾はすべて)、相当つらい地域だったと思われます。
荷頃を流れる西谷川です。左は荷頃小学校。
荷頃鉱泉などがあり、少し(50mくらい)温泉街的な情緒を持っています。
水もおいしく、景虎という日本酒が有名です。
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コメント
〔鳥坂(とっさか)〕の武助が〔荷頃〕の半七を刺した理由は、武助の女房を寝とってておいて、いわなくてもいいのに、
「おい、武助。おしんはな、やっぱり、お前が物足(ものた)りなかったのだとよ」
といったからです。
これは、男としてのプライドを逆撫でしたのといっしょでしょう。
プライドを傷つけたら、どんな仕返しをされても文句はいえません。
そうした怨恨による場合、2か所の刺し傷ぐらいですみましょうか。顔なども何か所か斬るのではないでしょうか?
その傷で、探索側は怨恨の線を追うとか。
投稿: 文くばり丈太 | 2005.01.15 15:07
>文くばり丈太さん
おっしゃるとおりです。
つけ加えますと、〔鳥坂〕武助は〔荷頃〕の半七の配下です。
首領が配下の女房を寝とっておいて、
「お前が物足りなかったのだとよ」
はないです。
首領の風上にもおけません。
そんな〔荷頃〕の半七と組んでひと仕事をたくらんだ〔羽黒〕の九兵衛も人を見る目がないですねえ。
投稿: ちゅうすけ | 2005.01.15 17:12
「五月雨坊主」で思わず吹き出してしまう所があります。
P153でおよねが伊三次に
「そうかえ、長谷川様に、およねがよろしくと・・・」との一言です。
いいですね。火盗改持つアットホームな一面がこのセリフに凝縮されてますね。
この「五月雨坊主」はあちこちに笑いがちりばめてあり、最後に平蔵の涙ですから。
投稿: 靖酔 | 2005.01.16 17:06
>靖酔さん
文庫巻17[鬼火]を読み返していて気づいたのですが、靖酔さんご指摘の「五月雨坊主」の一景、およねが伊三次に、
「そうかえ、長谷川様に、およねがよろしくと・・・」
という吹きだすような場面も、[鬼火]p296 新装p306、
仏師の家を出た駒造と仁三郎は、
「しっかりたのむぜ」
「合点だ」
右と左に別れて走り出した。
あってもなくてもいいようなこんなセリフが書かれているところは、テレビ(映画)の場面転換の間のためにおかれているということ。
もちろん、「五月雨坊主」のおよねのセリフは、いちど褒美をもらった鬼平に深い親近感をもってしまった彼女のノー天気な性格と、提灯店の娼婦にさえ親しみをいだかせる鬼平の人柄を暗示してはいますが---。
場面転換のためのセリフ---芝居はもちろん、映画のカット割りのことも知り尽くしていた池波さんだからこそ、こいういう、間のおき方も心得ていたのでしょうね。
投稿: ちゅうすけ | 2005.01.17 11:14