〔馬越(まごし)〕の仁兵衛
『鬼平犯科帳』文庫巻8に入っている[用人棒]で、高木軍兵衛をたぶらかして味噌問屋〔佐野倉〕へ押し入ろうとした盗人。
年齢・容姿:五十男。愛嬌のいい微笑をたえずうかべている。
生国:越後国三島郡黒川村馬越(現・新潟県長岡市与板町馬越)
探索の発端:肥前・唐津藩をしくじり江戸へ上府、深川の味噌問屋〔佐野倉〕の用心棒の口にありついた高木軍兵衛(35歳)は、身の丈6尺(1.8メートル)強、頬から顎へかけての立派な鬚で、いかにも豪傑風の外見ながら、ヤットウのほうはさっぱり。
その高木軍兵衛、須崎弁天社の境内茶屋で、不逞な浪人3人にいいようにいじめられたところを、15年ほど前につき合っていた〔馬越〕の仁兵衛に見られ、適当なつくりばなしで、〔佐野倉〕をごまかしてもらう。
洲崎弁天社(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)
その代わりに、〔馬越〕一味が〔佐野倉〕へ押し込む仲間へ引きずりこまれてしまうハメとなった。
食いつめ浪人のふりをしている鬼平の強さを目にした軍兵衛、助っ人を頼み込む。そして2人で、〔馬越〕一味の来襲を待ちかまえた。
『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊より)池波さんが借用した〔佐野倉〕の屋号。右手の〔乳熊〕は当シリーズ第1話[唖の十蔵]で〔野槌〕の弥平がやっている料理屋〔乳熊屋〕に借りられている。
結末:軍兵衛が手引きしてくれるものと信じきって先頭に立って〔佐野倉〕へ押し込んできた〔馬越〕の仁兵衛は、鬼平(仮名・木村平九郎)に、一刀のもとに斬り殺されてしまい、一味も捕縛された。
が、すべての手柄を軍兵衛にゆずっておいて、鬼平は姿を消した。
つぶやき:〔馬越〕の仁兵衛を越後の馬越村の出身としたが、口の達者なところは、北陸の人に見えない。
が、昭和30年(1955)、黒川村(字馬越)などをとりこんだ与板町は、長岡市の北西に接している。長岡市は山本五十六元帥の出身地でもあり、熱弁宰相・田中角栄氏の地盤でもあった。中には〔馬越〕の仁兵衛のように、口のまわりのいいのも出てこよう。
そうそう、池波さんには、幕末、長岡藩の家老をつとめた人---[悲劇の英雄 河井継之助](講談社文庫『若き獅子』に[悲劇の英雄]の題名で収録)という好短篇もある。
このあたり、中越地震の震源地に近い馬越島はどうだったのだろう? 一日も早い復興を祈念しよう。
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コメント
オックスフォードの語源が牛の渡り場だったなんて、[お気軽 書き込み帳]で初めて知りました。だから、このサイト、やめられないのよね。
日本の「馬越」を、英国流でいったら、ナグスアフォードだろうってのも、サマになってます。
こういう知的な遊びって、いいなあ。
投稿: 鳩ポッポ | 2005.01.20 18:48
>鳩ポッポさん
いらっしゃい。
やっと、写真や図版のアップの仕方をおぼえたので、これから、英語の語源だけでなく、写真や図版もどしどし入れて、楽しく多彩なココログにしてゆきます。
ご期待と同時に、参加して盛り上げてください。
投稿: ちゅうすけ | 2005.01.20 18:54
あ、高木軍兵衛が用心棒に雇われた味噌問屋〔佐野倉〕って、町は違うけどじっさいにあったお店なんですね。
〔乳熊〕って屋号も、業種は異なっているけど、池波先生の独創ではなかったんですか。
先日のこのコーナーのコメントに、靖酔さんが、江国慈さんとの対談を引用なさっていた意図がやっとわかりました。
そういうことだったんだわ。
投稿: 加代子 | 2005.01.21 07:31
この乳熊屋は確か赤穂浪士が休んだ店ではと思って江東区発行の「史跡をたずねて」を開きましたらありました。
元禄15年(1702)に本懐を遂げた赤穂浪士47名が泉岳寺に行く途中、休憩したお店で、ちょうど上棟の日だった乳熊屋味噌店では店主作兵衛が一同を招き入れ甘酒を振舞ったとありました。
現在佐賀町一丁目乳熊ビル入口に(株)ちくま味噌が建てた[赤穂浪士休息の碑]があります。
棟上だとしたら結構吹きさらしで寒いですよね。
この後天明までに江戸大火が数回ありましたので高木軍兵衛が居候した店とは違っていたでしょう。
投稿: 靖酔 | 2005.01.22 10:47
上記のコメント訂正してお詫びします。
鬼平の舞台は佐野倉で高木軍兵衛が居候したのも佐野倉です。乳熊屋ではありません。
投稿: 靖酔 | 2005.01.22 10:53