〔野川(のがわ)〕の伊三次
独立短篇[ 女毒](『アサヒ芸能 問題小説』 1969年9月号)の主人公。発表された1969年といえば、『鬼平犯科帳』シリーズが始まった翌年である。そのころには池波さんの作家としての声価も高まっていたろうに、『アサヒ芸能』から頼まれて引き受けたとは、まさに義理がたい。
『江戸の暗黒街』(角川文庫)収録。純然たる白浪ものではなく、香具師ものだが、裏の世界ものということで取りあげてみた。
年齢・容姿:26歳。引きしまた体躯。ぬけるように肌の色が白い。眉もきりりと濃い。切れ長の両眼はいつもやさしげなひかりをやどしている。
生国:相模国・野川とあるが、江戸期の相模にはなく、武蔵国橘樹郡にある(現・神奈川県川崎市高津区野川か、同市宮前区野川か)。
探索の発端:浅草一帯を縄張りとしている香具師の元締〔聖天〕の吉五郎(57歳)の一人むすめ・お長(22歳)が、一家の若い者(の)の〔野川〕の伊三次を婿に迎えて、跡目をつがせたいという。
伊三次にいなやはない。兄貴分の〔船形〕の由蔵も祝ってくれた。
真土山聖天宮(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)
ところが、伊三次が、新堀端の竜宝寺門前の汁粉屋〔松月庵〕の小座敷で汁粉をすすっていると、隣室からお長の声が---。
「あの伊三次が、このあたしをことわる理由があるものか---」
その美貌を鼻にかけてかさにかかった傲慢ないいぐさに、伊三次は反発、
(いさ次はえさにかまわず飛びつくような、さかりのついたおすねこじゃ、ございません」
と置手紙をして姿を消した。
お長が、仕掛人〔田町〕の弥七に伊三次殺しを依頼したのは、おんなの誇りを傷つけられた怒りからだった。
弥七は、安倍峠へと向かう。伊三次が江戸へくる前にいた小田原の香具師の元締・和市から、伊三次が下ノ諏訪
生まれでいまは帰農している豊太郎と親しかったことを聞いたからだ。
結末:伊三次は運よく、弥七を刺したが、自分も片腕を斬り落とされた。
そりから五年後、安倍峠の駿河側の峠のとっかかりに梅ケ島の温泉場がある。そこで由蔵を襲っていた仕掛人2人を射殺したのは、猟師になっていた伊三次と義父であった。
つぶやき:「伊三次」は、『鬼平犯科帳』の密偵・伊三次と同名だが、じつは、こっちのほうが早い。松本幸四郎(白鴎丈)=鬼平で映画どりがはじまったとき、台本に「密偵」とし書かれていなったので、画面で名前を呼ぶときにこまるからと、誰かが「伊三次」とつけたのが、そのまま小説にもつかわれるようになったと----これは、そのときの監督だった高瀬昌弘さんから、じかに聞いた。
甘いものに目のない伊三次が入った、新堀端の竜宝寺門前の汁粉屋〔松月庵〕も、『鬼平犯科帳』文庫巻2[お雪の乳房]で兎忠がお雪と乳繰りあった店である。もっとも、兎忠のほうが半年ばかりはやかったが。
仕掛人・弥七は、『剣客商売』の四谷の御用聞き〔武蔵屋〕の弥七と同名だが、やはり、[女毒]のほうが3年半はやい。
安倍峠の麓の「梅ケ島」の温泉場へ池波さんが行き、安倍峠を越したいきさつは当サイト[〔雨乞い〕庄右衛門]に書いているので、そちらを参照していただきたい。
ぼくが訪ねた翌朝早く、安倍川上流を猿の群れが餌をもとめての移動だろう、瀬渡りをしていた。
前夜には、宿の車庫の床を小マムシが這っていた。
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コメント
触発されて、『江戸の暗黒街』をとりだして、[女毒]を読み返しました。
いやあ、お長の執念たるや、「もの凄い!」の一語につきます。美人の女にしてあれですから、そうでない女性はどんなだか---背筋が寒くなりました。
投稿: 文くばりの丈太 | 2005.02.03 12:50
江戸時代・庶民には苗字がなかったので同じような名前が多かったのでしょう。
「男毒」 「女毒」で吊り合いがとれていますが、男毒がセックスに関係しているのに比べ、女毒は女の何気ない言葉がきっかけになっており面白いですね。 今でも美貌や才能を鼻にかけ、男を見下す女はいるでしょう。
女の方が同じような名前が多いのは「はな」「ちょう」などの上に「お」を付けて
呼び名にしたためで密偵のおまさも「まさ」が名前だったんじゃないかlと考えています。
毎度次々に盗賊の名前が出てくるので楽しみにしています。
投稿: edoaruki | 2005.02.03 17:43
>文くばり丈太さん
お長が、ライヴァルの〔羽沢〕の嘉兵衛の妾になりはてるっても「もの凄い!」けど、邪魔になった亭主の由蔵に、嘉兵衛にいいつけて仕掛人を向けるってサイド・ストーリーは、さらに「もの凄い!」ですね。
>edoaruki さん
〔おまさ〕ですが、梶芽衣子さんの本名は太田雅子なんで、撮影中に「おまさ」って呼ばれても違和感がなかったって秘話を、プロデューサーの故市川久夫さんに教えられました。
「おまさ」は漢字でかくと、正太郎さんの「お正」ですかねえ。
そういえば、池波小説の盗賊に、正太郎の「正」の字をつけたのは見あたりませんね。
投稿: ちゅうすけ | 2005.02.04 04:22