〔浜崎(はまざき)〕の友蔵
『鬼平犯科帳』文庫巻6の[大川の隠居]で堅気の船頭・友五郎として登場。その後、巻8[流星]ほかでも顔を見せる。
年齢・容姿:寛政3年(1791)の初秋の事件、[大川の隠居]では68歳。[流星]は翌々5年(1793)の事件。
日増しの焼竹輪のような肌色。棹をあつかう手さばきはみごと。
生国:武蔵国新座郡(にいざごおり)浜崎(はまさき)村(現・埼玉県朝霞市浜崎)
池波さんのルビは(はまざき)だが、地元での発音は(はまさき)と濁らないと。
明治19年(1886)ごろの川越-浜崎
上記の地図の部分拡大
〔浜崎〕の友蔵が川越船頭として雇われたかもしれない上福岡の回漕問屋〔福田屋〕。
上福岡市立河岸記念館となつている入館チケット
探索の発端:風邪で伏せっていた鬼平の寝間から、亡父ゆずりの煙管を盗んでいった者がいた。
快気祝いを兼ねた鬼平は、剣友・岸井左馬之助と連れだって、思案橋たもとの船宿〔加賀や〕から舟を出した。と、船頭の友五郎が、長谷川家の替紋「釘貫(くぎぬき)」を彫りこんだ煙管をだしてくゆらせたではないか。
密偵の〔小房〕の粂八にいいつけてさぐらせてみると、友五郎は10年ほど前に、〔飯富〕の勘八一味で右腕として段取りをしきっており、粂八もその薫陶を受けたものであった。
(参照: 〔飯富〕の勘八の項)
そこで鬼平が、煙管を取りもどすための一計を案じた。
結末:今戸橋ぎわの料理屋〔嶋や〕で友五郎に酒をすすめた鬼平は、煙草入れからくだんの煙管を取り出して一服つけた。
と、友五郎の手から盃が、音をたてて落ちた。
亡父・宣雄が特注した煙管師・後藤兵左衛門(赤印)
文政12年(1829)ごろ刊行の京都の問屋名鑑『商人買物独案内』
つぶやき:池波さんが少年時代をすごした永住(ながずみ)町の東には、新堀川が流れていた。その対岸の竜宝寺(台東区寿 1-20- 4)は、別名「鯉寺」と呼ばれている。目の下4尺5寸もあった巨鯉の供養塚が建立されているからである。
竜宝寺(鯉寺)の正面。かつては新堀筋に面していた。
「大川の隠居」の巨鯉のモデルの供養塚
この巨鯉が、大川の隠居のモデルである。少年時代に鯉塚の由来を知った池波さんの胸の中で、[大川の隠居]の物語はしずかに発酵してい、『鬼平犯科帳』随一の佳篇に育った。
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コメント
「大川の隠居」は鬼平犯科帳の中でも情緒のある話で浜崎の友蔵が子供を誘拐され、やむを得ず盗賊に荷担する筋になっておりますがなにかやるせないですね。 大川は潮が入っていますので淡水魚の鯉が住むことが出来るかどうか疑問です,ビデオを観ると鯉は張りぼてのようで興ざめです。本当の鯉を上手く使って映像に細工すればよいのにと思いました。
投稿: edoaruki | 2005.02.24 23:22
>edoaruki さん
おっしゃっているのは、[大川の隠居]と[流星]をあわせて2時間スペシャル番組としたビデオ---タイトル[流星]のことですね。
池波さんが、せっかく、[大川の隠居]というすばらしい素材と、人の心に巣食っている対抗心というどうしょうもない性根を描いて、佳篇にしあげているのに、なぜ、[流星]のようなありきたりの仕掛け話と仏像盗み話をくっつけたのか、合点がいきません。
もっとも、わが〔鬼平〕クラスでは、池波さんが見つけた[流星]の廃寺の位置をつきとめて探訪するという快挙をなしとげましたが。
投稿: ちゅうすけ | 2005.02.25 03:30
「大川の隠居」と意思が通い合う浜崎の友五郎の話はとても面白いが、鯉が雨を予測することは初めて知った。
信州・佐久の友人に質したところ、その友人の実家も佐久鯉の養殖をしていたとのことで。
「鯉が水面から跳ねると、雨がくるぞ」
と言っていたそうで、詳しいことは分からぬが、雨雲を運んでくる低気圧が近づくと、山にすむ小さな虫が下へおりてきて池の水面にも群がる。それが鯉の好物らしく水面から飛び跳ねてご馳走になる姿を見て、人は雨を予想したと言うのですが。
投稿: 田無の弱法師 | 2005.02.28 08:17
浜崎が朝霞の浜崎なら、読みは「はまさき」と濁りません。念のため。
投稿: gon | 2005.05.26 01:02