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2006.05.08

脇ばなし、2つ

対長谷川平蔵とは無縁とおもえる脇ばなしを2つ、記す。

その1。
左金吾が脇腹の産まれであることはすでに記した。
実父---すなわち、当家の5代目・定蔵(さだもち)について書きとめておく。

この人は、4代目・定相(さだすけ)の実子ではない。養子である。しかも、不自然な形での養子である。
定相には、男子が2人いたが、最初の子は幼くして歿した。
2番目の子は、定蔵を迎えるためであろうか、養子に出された。
定蔵は、姫路・15万石、酒井雅輔楽頭(うたのかみ)忠恭(ただずみ)の家老・松平次郎左衛門定員(さだかず)の4男である。
輻輳をおそれずに記すと、定員は松平家の3代目---定相の父---のニ弟で、酒井家の家老に転出したご仁。
その子・定蔵は、定相には従弟あたる。

酒井家が謀略家であることは、池波さんの直木賞受賞作『錯乱』にも描かれている。
家老の4男を、ゆかりの濃い久松松平へ押しこむぐらいのことは、以上の経緯からすればなんでもなかったろう。
また、、定蔵が長門守と、当家で初めてなんとかの守を受爵したのも、酒井大老の配慮であろう。

おかしいのは、『徳川実紀』である。

71126b
『徳川実紀』明和8年12月6日 左金吾が家督した日の記録。

定蔵は、明和8年(1771)9月26日に歿し、左金吾の家督相続は12月6日に「父死て家つぐ者15人」の一人として「松平長門守が子織部定寅」と、自慢げにつけた呼称「左金吾」を無視している。左金吾、30歳。
後世における、左金吾の人気の悪さを想像していい扱い方といえるかな。

その2。
家督すべき嫡男・定栄(さだなが)が28歳で病死し、脇腹に生まれた定寅(家督前は定虎)が家を継ぐべく、御目見したことは、この月6日に『実紀』を引いて既述した。
定栄の死は、宝暦2年8月20日で、妻はいない。つまり、未婚のまま薨じた。長いあいだの闘病だったと推察する。
同年の3月ごろには、余命いくばくもなしと、医師が告げたのかもしれない。
急遽、定寅の御目見の手続きがとられた。
じっさいの御目見は、5月23日であった。まだ息を引きとってはいなかった定栄は、殿中へ出かける定寅を、どういう気持ちで病床から見送ったろう。

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