高貴薬・瓊玉膏の下賜
火盗改メの任に足かけ8年近くも就いていた長谷川平蔵は、寛政7年(1795)4月に倒れた。
5月に入って病状がますます重くなっていることを聞いた将軍・家斉は6日、大陸渡来の高貴薬瓊玉膏(けいぎょくこう)を見舞いとして下賜することにした。
側衆の加納遠江守久周(ひさのり。伊勢・八田藩主。1万石)が長谷川邸へつかわされたように、これまで書いてきた。瀧川政次郎博士『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫)に「遠江守を平蔵の屋敷に遣わし…」とあったのが頭へこびりついていたためといってはいいわけじみる。
平蔵の息・辰蔵が幕府へ呈出した「先祖書」を読みなおしていたら、なんと、
「上意にて、お薬・瓊玉膏を頂戴するよう仰せつけられるむね遠江守のお宅で、ご同人からわたくしへお達しがあり、瓊玉膏を頂戴つかまつり候」
とあるではないか。
遠江守が長谷川家を訪ねてきて病床の平蔵を見舞ったのではなく、遠江守の屋敷へ辰蔵が呼びつけられたのだ。
よく考えると、なるほど、内閣官房長官代理がヒラ課長を病院へ見舞うわけがないのと同様、1万石の大名が400石の幕臣ごときの家を訪問するはずがない。
こちらが大の平蔵びいきなものだから、遠江守のような大身までが病床の平蔵をねぎらったように錯覚してしまっていたのだ。
辰蔵を呼びつけた遠江守が「老中格の本多弾正少弼(しょうひつ。奥州・泉藩主。1万5000石)どののほかご用取次のお2人のところへ礼に行くように…」と指図しているところがいかにも日本的なこころづかいだ。
手ぶらで行くのではあるまい。
このとき辰蔵は27歳、御目見(おめみえ)はすんでいたが出仕はまだしていなかった。
翌7日に、平蔵の同役の先手弓の頭で月番の彦坂九兵衛(42歳。3000石)に連れられてご老君(58歳の本弾? 家斉は23歳)へお礼に参上している。
その甲斐あってか、あるいは幕府上層部が実績の高い平蔵を冷たくあしらってきたことをうしろめたく感じたか、8日には辰蔵を書院番士に任命した。
家督していない者が番方(武官)に召し出されると家禄とはべつに廩米300俵をくだされるから、長谷川家としては家計が助かる。
もっとも平蔵はきょうかあすかの重体、辰蔵の家督相続はそれほど先のことではないから、幕府の腹はほとんど痛まない。
つぶやき:
多くの平蔵研究書が、加納遠江守が長谷川家を見舞ったように受けとってきたのは、幕臣の家譜を集めた『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』の記述が、「平蔵病いにかかるのよしきこしめされ、ねんごろに御諚ありて、うちうちより瓊玉膏をたまい…」とあいまいなせい。この『寛政譜』は辰蔵が呈した「先祖書」を基にしているのだが。
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