平蔵の後釜に座る
門閥尊重の保守派のシンボル・松平定信の意を帯した同族の松平左金吾定寅が、能力派の長谷川平蔵を徹底的に看視したなによりの証拠を示すために、一気に、平蔵の死へ飛ぶ(いじめぬいた6年間のことは、おいおい明かす予定)。
寛政7年(1795)4月、平蔵は病床についた。そして、5月10日に薨じたことは、菩提寺の戒行寺の霊位簿に記されている。
『続徳川実紀』が5月16日の項に、
「先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆるされ。久々勤務により金三枚。時ふくニ賞賜あり」
と記しているのは、辞職願を受領されたのがこの日だからである。
『続徳川実紀』寛政7年5月16日の項
嫡男・辰蔵が呈した「先祖書」は、5月14日に、
「大病に相い成り候につき、同役月番の彦坂九兵衛、岩本石見守をもって、御加役御免願いたてまつり候ところ、同月十六日召されにつき、右石見守登城つかまつり候ところ、願いのとおり御免、且つこれまでの出精相勤め候につき、御褒美として金三枚時服、御祐筆部屋縁頬にて、戸田采女正これを伝う。
同月十九日卒」
とある。
すなわち、10日の死を秘し、公式には辞職願の受領後に喪を発したための『続実記』の記述である。
まあ、そういうことは、公の手続きだから、どうでもいい。
憤慨に堪えないのは、平蔵の息がまだある5月8日、『柳営補任』が、先手弓の2番手の組頭に松平左金吾が発令されたと記していることである。
つまり、平蔵色の一掃を策したわけである。
平蔵が掌握していた先手弓の2番手は、先に記したように、平蔵着任前の50年間に144か月ももっとも長く火盗改メの任をこなした経験豊富な与力・同心たちがいる組で、平蔵の下で、さらに88か月も経験を重ねた、最強の部隊である。
ところが、この組の組頭へ転じてきた左金吾は、弓の2番手に、二度と火盗改メの任をもたらさなかった。私情優先、公益無視のとんでもない処置である。
こういうことを平気でやった松平定信一派を、なんと、呼べばいいのであろう。
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