嫡子・辰蔵への助言
功なった父親から見た成人前の息子は、友人選びまでふくめて、やることなすこと頼りなく、これで一家を立てていけるようになるだろうかと不安でもある。いや、あなたの家のことではなく、長谷川平蔵と息子の辰蔵……。
まあ、辰蔵の描かれ方に、(成長小説の要素もそなえているな)と思ったこともしばしば。
史実の辰蔵は、処世は父親の平蔵よりはるかに上手だったかもしれない。父親はついに授かることのなかった従五位下・山城守も手にしているし、番方(武官)では最高に近い先手弓・8番手の組頭(1500石高)にも就いている。二つは祖父と同じだ。
寛政10年、『寛政重修諸家譜』編纂のために、辰蔵(平蔵宣義)が
呈した「先祖書」の表紙。西丸御小納戸 長谷川平蔵と署名。
(国立公文書館蔵)
また賢明にも、出費の多い火盗改メを回避している。平蔵が足かけ8年も火盗改メをつづけて家産を傾けてしまっているから、幕府のほうで気の毒がって命じなかったともとれる。
寛政7年(1795)5月8日(平蔵の死の2日前)『続徳川実紀』に、
「先手弓組、長谷川平蔵宣以の子・辰蔵宣義(のぶより)、父
のお蔭もて両番となる」とある。
呼びだしによって急きょ登城すると、書院番入りを命じられた。
もともと番入りする武官の家柄だし、御目見(おめみえ)は父の平蔵が手をまわして7年前に19歳ですませた。もっとも若年寄による御目見前の下見分は、武芸は辞退、素読講釈だけで受けてはいるが……。
「父のお蔭もて」はいいすぎではないかと勘ぐってみた。
思いあたったのは、平蔵は死の床にあるとはいえ、先手組頭と火盗改メを辞していない。親が在職中に番入りすれば家禄とは別に、当人に廩米300俵が給され、ダブル・インカムになること。
が、親の七光(?)もここまで。あとは自身の才覚で出世を考えないといけない。留意したのは、父が名火盗改メの世評をとる一方で、役人にあるまじき、やりすぎ、目立ちすぎ、前例軽視の型破りで同僚の幕臣たちからは総スカンにちかい扱いをされていたこと。
辰蔵は母に、祖父・宣雄の人となりをきいた。
「軽率なそこもとには七代さま(宣雄)の真似は、とても無理。
ですが人前で黙っていれば、すこしは七代さまに似るでしょう。
口が堅いとの評判をとれば、人は秘密を打ちあけてきます。
季節の挨拶、祝儀不祝儀などは書状に託してぬかりなく届け
ること」
効果は1年もしないであらわれた。寛政8年、組から小納戸に2人選ばれた。辰蔵が就いたのは西の丸――若君づきの小納戸。若君はつぎの将軍なのだ。
さらに手紙をせっせと送った(いまならeメールか)。しだいに味方がふえ、人望もあがってきた。それでもあせらなかった。我慢すること29年――健康にも恵まれていたから57歳で小納戸頭取(役高1000石)へ。
一代かぎりの今の俸給生活者と、家に収入がついていた幕臣とは異なるが、父親の逆を行った寡黙、書簡……の辰蔵の生き方は参考になるはず。
つぶやき:
感心するのは、平蔵宣以の妻・久栄(小説での名)である。舅・宣雄は、嫁してきて3年そこそこで歿している。それなのに、番方(武官)の格とはいえヒラつづきでしかなかった長谷川を、舅・宣雄が従五位下・なんとかの守に叙されるまでに引きあげたやりようをちゃんと見ている。
しかも、それを夫には強制していない。
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コメント
火盗はやっていなかったのですか…
道理で「鬼辰犯科帳」を書くつわものが誰もいないわけです。
もしやっていたとしたら、誰かが書いていたでしょう。
僕もなんとなく考えたことはあります、章題として
「落日」「密偵狩り」「八目の仁助」「佐嶋忠介」
「敵」「火つけ」「襲名」「怨恨」「品川宿」「石火」などと。
残念なことですが、それはそれでよかったのでしょう。
投稿: Chic Stone | 2006.10.17 22:52