実母の影響
長谷川平蔵は、父・宣雄の妾腹の子に生まれた。
生母・お園(その)は、巣鴨(すがも)村の裕福な大百姓・
三沢仙右衛門の次女に生まれ、長谷川家へ行儀(ぎょうぎ)
見ならいがてらの奉公にあがり、宣雄と、
「わりなき仲……」
になってしまったのである。([霜夜])
池波さんは、御目見(おめみえ)以上の幕臣の家譜をあつめた『寛政重修諸家譜』に平蔵の実母が「某氏」とあったので、「妾腹」とした。
『寛政重修諸家譜』の平蔵宣以の項
その女性とのあいだに、銕(てつ)三郎(平蔵の幼名)をもうけていた宣雄が、長谷川家の六代目当主で、甥(史実は従兄)の修理(しゅり)の死の床からの懇望に負けて末期養子となり、これも修理の養女になった姪(史実は宣雄の従妹。修理の実妹)の波津(はつ)と結婚、家督した経緯は小説でいくども語られる。
:系図は2006年5月26日に。
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宣雄30歳、平蔵3歳。
お園は銕三郎とともに実家へ帰され、悲嘆のあまりに病死、銕三郎は17歳まで三沢家で育てられる。
平蔵の母親がだれかを問題にするのは、平蔵におよぼした精神的な影響を類推するからだ。
小説ではお園は早死するから、平蔵は三沢夫婦から多大の影響をうけたはず。庄屋をつとめるほどの家柄だから格式は問題ない。が、なんのかんのといっても番方(武官)の家の嫡子だ、そこらの農家の子なみに育てるわけにはいかない。
銕三郎が17歳になるまで三沢家はどんな教育をほどこしたろう。小説はそこのところをぼかしている。
平蔵の幼時に病死したとされている実母「某氏」は、研究家の釣洋一さんが菩提寺・戒行寺(新宿区須賀町)の霊位簿で、平蔵が病死した寛政7(1795)年まで生存していたことを発見した。
はやばやと死去したのは継母の波津(はつ)のほうで、平蔵が歳5の時に世を去っている。享年30歳前後か。
実兄同様に病身だったので婚期がおくれていた。
平蔵が家出して不逞(ふてい)の輩(やから)の仲間へ入ったのは継母との折りあいが悪かったからとした池波説は史実からはなりたたない。
滝川政次郎博士『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫)は、戒行寺の霊位簿の長谷川家の項に、
延享二年一〇月二一日
守玄覚成 長谷川権十郎知 行地
戸村品左衛門
とある仁は、平蔵の実母の父ではないかという。
千葉県成東町の文化財保護委員長(当時)の長谷川常夫氏が調べてくださった結果、知行地の庄屋だった戸村家は五左衛門か権左衛門を代々伝承し、品左衛門なる仁はいない、と。
品左衛門探しはふりだしにもどったわけだが、それはおいて、仕事のできる男性としては(いや、男性とはかぎらないが)、子どもにおよぼした母親の影響も推察しておきたい。
部下とくつろいで話す機会がもてたら、さりげなく母親のことを話題にのせてみると、彼の言動を深いところから理解できることもある
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