『旧高旧領取調帳』
田沼意次の嫡孫・意明(おきあき 15歳)が、陸奥国信夫郡、越後国頚城郡の両郡においての1万石に減知をされたことは、すでに報告した。
それが、額面どおりの1万石はおぼつかない痩せ地であったらしいことも想像した。
具体的にどの村々であるかを確認してみようと、手元の『旧高旧領取調帳 東北編』(近藤書店 1979.8.25)を開いた。
『旧高旧領取調帳』は、幕末維新時の村名・村の石高、旧領主名・新支配が克明に記されている基本資料である。
岩代国信夫郡下村 1558.333石 幕府領分となっている。
その前後の、下大笹生村、太谷地村、赤川村、仁井田村なども幕府領分。
目を皿のようにして信夫郡全部を検分したが、田沼のタの字も見つからない。
伊達郡、安積郡も見た。ない。
つづいて、『旧高旧領取調帳 中部編』(近藤書店 1977.4.20)の越後国頸城郡を検分。やはり、ない。
またも、松平定信派の陰謀で記録が抹消されたか---などと考えてみたが、定信内閣ははるかむかしに解体されている。この史料に影響力をおよぼしたとおもうほうがどうかしている。被害妄想にすぎる。
で、にんとなく、別の史料を眺めていたら、なんと!! いつの時期にか、田沼家は相良へ復帰しているではないか。
で、、『旧高旧領 中部編』の遠江国榛原郡の相良を捜す。あった!!安堵されていた。
田沼玄蕃頭領分(石)
堀切村 83.6474
大磯村 136.1657
法京村 24.451
坂井村 65.919
平田村 187.793
相良町 47.767
福岡村 26.957
波津村 318.454
(以下16ヶ村分略)
城も家臣の屋敷も破壊されつくした田沼家が、どういう理由で、いつ、相良へ帰ってきたのか、1月にふたたび、静岡県立中央図書館へ足を運んで『相良町史』を読まねば。
【ついでながら】
『旧高旧領取調帳』は、歴博の手によって、なんとデータベース化されていて、検索したい村がわかっていると、じつに簡単に検索できる。すばらしい!
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