ふたたび、田沼玄蕃頭意正
12月17日の[田沼玄蕃頭意正]で書き漏らしていたことがいくつかあることに、『相良町史 資料編 近世(一)』(相良町 1991.3.30)を精読していて気づいた。
意正(おきまさ)は意次(おきつぐ)の第4子であることは、すでに記した(非業の死をとげた嫡男・意知(おきとも)の下に2人の男子が生まれたが夭折)。
田沼内閣で老中を勤めた水野出羽守忠友(沼津藩主。3万石)の養子(16歳)に迎えられ、その女を室としたが、一件後、縁を解消されて田沼へ帰された(28歳)とも紹介。
帰家後に称した「田代姓」は母方のそれであったと(『相良町史』)。
意次の嫡孫・意明(ともあき)が24歳で卒(しゅっ)するや、養子となっていた舎弟・意壱(おきかず)が家督したが、彼も25歳の若さで逝った。
意壱の大叔父にあたる意正が遺領一万石を受け継いだのは享和3年(1803)7月、意正46歳のときであった。
「家譜」によると、相続の礼として、将軍・家斉(いえなり)へ、
・太刀1腰、紗綾2巻、馬代として20両
を献上。西丸の家慶(いえよし)へ、
・太刀1腰、馬代20両
台所へは、
・白銀3枚
を献じている。家督相続の費用もなかなかのもの。玄蕃頭の官位を授かったが、まさか献上品々の代償ではあるまい。官位の礼はふたたび太刀1腰、馬代として白銀1枚。家慶へも同様。
あわせて、木挽町の居室から駒込の下屋敷へ引き移った。
太刀1腰と馬代は、その後も、なにかあると、献上している。
意正は76歳で卒(しゅっ)するまで30年間、藩主でありつづけた。ために嫡子・意留(おきとめ)は、家督後わずか4年余で致仕、家督を子の意尊(おきたか)へ譲ったと、『相良町史』は、一言ありげに記している。
意正には、柳営(江戸城)内での遊泳術に、相当の自信があったのであろうか。
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