平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その4)
2006年11月21日に[田沼意次の4重要政策(その1) 年貢増徴でなく流通課税による財政再建]を、同月24日に(その2)として[通貨の一元化]を紹介したまま、3.蝦夷地の調査と開発、 4.印旛沼の干拓に入る前に、別の情報へ移ってしまった。
(承前)
「わしは少しあせりすぎたのかも知れない。印旛(いんば)沼、手賀沼の干拓といい、利根川の掘割工事といい、また、蝦夷(えぞ)調査にしたところで、わし一代では到底、やり遂げられぬ大事業だ。わしの志を意知に継がせ、完成させれば、幕府のためにまたとなき財産を後世に残すことが出来ると信じたが故(ゆえ)に、我が子が若年寄に任じられるのを、心から喜んだ。今となっては、それが間違いであったとよくわかる」
(略)
意知の若年寄への起用は、将軍・家治の発案であったといわれている。幕政につくのが名門の出で、しかも、いったん就任すると、病気にでもならないかぎり高齢まで居座りがちだから、必然、幕政の老齢化がすすむ。
その傾向は、老中や若年寄とは格式に大きな差があるが、長谷川平蔵宣以が就任した先手組頭にも及んでいた。
家治が、田沼意知を若年寄に、といったのも、若年寄の若返りを図ったともおもえないではない。
老齢者はとかく旧例にこだわりすぎる弊がある。
「親馬鹿を承知でいうなら、意知にはわしにはない先見の明があった。とりわけ、蝦夷地にはわし以上に関心が深く、よく勉強して居った。蝦夷地のみならず樺太(からふと)・千島などの地についても、本来ならば日本固有の地にて松前藩の施政あったことは、元禄の頃、松前藩より提出された地図並びに松前島郷帳(しまごうちょう)にても明らかであると申し、それが今日、赤蝦夷、即ちおろしやの者共がしきりに南下しつつあるのは、松前藩が北鎮の使命をないがしろにしていた故だと談じて居った---」
(略)
意次が生前の意知の提言を容れて、北海道検分隊を派遣。松前藩は、交易の利益を独占しつづけるために、幕府には不毛の地との報告し、じつは、アイヌ人に農作を禁じていたことも報告された。
調査隊は、内輪にみつもっても、面積の一割は耕作可能で、その数字は、国内の幕領の400万石を上回る600万石---と試算。
意次は、これの開発こそ、徳川家にたいする最大の贈り物と考えていた。
しかし、北海道探検は、ご三家、一橋治済(はるさだ)、松平定信らの反田沼・門閥派により、家治の意向と偽って中止・撤収・処罰された。
なおざりにしていた[3.蝦夷地の調査と開発]を、平岩さんの作品に代弁していただいた。
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