本多伯耆守正珍の蹉跌(その3)
宝暦4年(1754)夏から足かけ4年におよぶ美濃国・郡上八幡の農民一揆が、老中・本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 4万石)の責任問題にまで及んだ概略は、これまでに記した。
『徳川実紀』の宝暦8年10月28日の項---。
前の宿老・本多伯耆守正珍は在職時に、金森兵部少輔頼錦(よりかね 濃州・郡上(八幡)藩主 3万8000石)が封地の農民ら、領主の命令を拒否し、不良のふるまいを繰り返してはげしく行っているのを、頼錦はかねて縁のあった正珍に、内々に相談していた。
頼錦の家士たちが正珍の家士たちと不正な談合を持ったことも、正珍は承知していながら、ふかく糾明もしなかったばかりか、同列にも報告せず、なおざりに放置していたために、あらぬ風説さえ広がった。
あれといいこれといい、重職にも似合わない手落ちなので、逼塞を命じられた。
前の若年寄・本多長門守忠央(ただなか 遠州・相良藩主 51歳 1万石)も同じことについ内々の請託を入れて、勘定奉行・大橋近江守親義(ちかよし 2120石)をひそかに頼錦へ紹介。親義はさらに美濃郡代・青木次郎九郎安清(やすきよ 73歳 200俵)へ命じた。
ところが、一件吟味の際、忠央が重職にある立場を考慮して寛恕の尋ねをしたにもかかわらず、事実を否認したり、虚偽の答えをしたので、評定所での鞠問(きゅうもん 再審)まで受けることとなり、ついに白状したのは、まことに重職にふさわしからざる仕儀である。よって封地を召し上げ、松平越後守長孝(ながたか 作州・津山藩主 5万石)へあずけられた。養子・兵庫頭忠由(ただよし 24歳)も父の罪により同然。
大目付・曲渕豊後守英元(ひでもと 1200石)も、郡代・青木次郎九郎安清とのやりとりを隠したので、免職、小普請入りの上、閉門。
大橋近江守親義は事が公けになると、手元にあった一件書類を届けて長門守忠央に任せ、虚偽の申し立てをしたので、采地没収の上、相馬弾正少弼尊胤(たかたね 陸奥・中村(相馬)藩主 6万石)へあずけ。
青木次郎九郎安清は、小普請入り、逼塞。おそらく、老年だし、上からの命令にしたがったことの情状酌量があったのであろう。
とにかく、百姓一揆で老中を含めて幕閣や藩主が免職・改易になったのは、江戸時代でこの事件だけといわれているほど、大事件にまで発展したのは、駕籠直訴もあるが、査問のときに虚言を弄して切り抜けようとした役職者がいたことにもよるようである。
その点、本多伯耆守正珍は、幼少時からの儒学の習得が効果があったかのように、免職・逼塞という比較的軽い処罰ですんでいる。人徳といってよかろう。
しかし、この事件の経過を、平蔵宣雄(のぶお)は、どう見ていただろう。誠意の人だから、とたんに遠ざかるようなことはしていないと思える。
あんがい、芝二葉町の中屋敷に蟄居中の正珍を何食わぬ顔で見舞ったりして---。その表裏のない態度を伝え聞いた士たちが、好感をもったかもしれない。
ちなみに、この年、銕三郎(平蔵宣以の幼名)は13歳。武士の子なら、一人前扱い。宣雄は、正珍のことをどう話して聞かせたろう?
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