本多平八郎忠勝(ただかつ)の機転
「幼少のころ、母者から『武野燭談』のいくつかを読み聞かされていました」
本多伯耆守正珍(まさよし)侯(駿州・田中藩の前藩主 4万石)の芝二葉町の中屋敷。正珍侯は隠居所同然に使っている。隠居といっても50歳。昨宝暦8年(1758)に老中を罷免させられた。
庭の樹々が自慢で、紅葉の宴に、長谷川平蔵宣雄、侯の縁者で宣雄の同僚・本多采女紀品(のりただ 45歳。2000石)、若い佐野与八郎政親(まさちか 27歳 西丸書院番士 1100石)、それに宣雄の嫡子・銕三郎(14歳)がきかん気げな顔を引きしめて、かしこまっている。
『武野燭談』は、戦国末期から徳川政権初期の、信玄、信長、秀吉、家康や麾下の武将たちの逸話を書き記した膨大な読物である。書き手の名は知られていない。
「それで、[本多中務(なかづかさ)大輔忠勝(ただかつ)]どの巻を読み返しまして、本多侯にお教えをいただきたく---」
「ほう」
「右府(信長)さまが本能寺で光秀公に弑(しい)なされた天正10年6月のことでございます」
「大神君(家康 41歳)は酒井左衛門尉(忠次 ただつぐ 46歳)と、植村右衛門佐(?)とばかり御供にて、堺を御見物あり、茶屋四郎三郎(注:次郎)御案内として供奉(ぐぶ)す。少人数にては早速に三州迄争(いか)で引き取らせたまうふべき。
一同御自害とこそ思召し候え、とありし時、忠勝(35歳)進出、仰せの如く、本道は皆敵の中なり。さればとて、名将の故なく御自害あるべきことにもあらず。間道を経させ給ひ、夫れより山越えに伊勢路へ御懸かりあらばも別儀候まじ、と申上ぐる」
ちょっと差し出口をはさむと、植村一門で『寛政譜』に、そのころ右衛門佐を称した仁はみあたらないし、堺に供した記述もない。
『寛政譜』によると、酒井忠次のほかに、井伊万千代直政(なおまさ 22歳)、榊原小平太康政(やすまさ 35歳)、石川助四郎数正(かずまさ、50歳)、大久保七郎右衛門忠世(ただよ 41歳)、そして本多平八郎、穴山梅雪入道も供奉していた。
そうそう、服部半蔵正成(まさなり 40歳)を忘れては、伊賀越えの筋がとおらなくなるい。
この堺見物は、もともと、信長が返礼として家康とその功臣たちを慰労するために、秘書官の長谷川秀一を付して行かせたものである。
司馬遼太郎さん『覇王の家』(新潮文庫)によると、京都にいた茶屋四郎次郎は、信長の死を告げるために堺へ向かった。
帰京へ向かっていることを信長へ先触れする本多忠勝は、橋本(地図=赤○)で茶屋と出会い、信長の変事を知る。
(明治19年ごろの淀川ぞいと山城国相楽郡あたり)
思うに、忠勝も小者を数人従えていたであろうし、茶屋四郎次郎も手代・小僧に護衛させていたろう。同じことは、酒井忠次ほか、井伊直政、榊原康政、石川数正、大久保忠世にもいいうる。数十人の集団であったろう。
忠勝・茶屋がその集団と出あったのは、枚方の手前(地図=左の緑○)と、『覇王の家』は推察する。
甲賀・伊賀の山越えをすすめたのは、長谷川秀一であった。家康は輿に乗り換え、間道を真東へそれた。
「上方(かみがた)初めての者共ばかりなれば、如何にして間道を知るべき、と宣ふ。
忠勝、其段は某(それがし)に御任せあるべし、と申しもあえず、其辺を走廻り、所の庄官(庄屋)一人を生捕り、己れ此殿を御案内申せ、悪しく導き奉れば忽ち打殺すべし、と言いて、其者を引立て案内させ、清滝まで出でさせ給ふ」
清滝は、『旧高旧領』で検索すると近江国坂田郡にあるが、明治19年の地図には見当たらない。
『覇王の家』は、山坂を駆けのぼり駆けくだりして、尊延寺(地図=中の緑○)を過ぎたときには日が暮れたとしている。
「あとは足さぐりで歩き、坂がどうやら東へくだっていると気がついたときは山城国相楽(そうらく)郡に入っていた。この地方の山田荘(?地図=右の緑○)という字(あざ)に入って人家の灯を見たときは、深夜であった」(『覇王の家』)
道案内をいいつけた村長(むらおさ)は、その家族を人質として連れられた。が、次の村までくると、金子を与えて帰した。その金子は茶屋四郎次郎が用立てた、と司馬さんは見ている。
「土地(ところ)の父老(おさ)を道案内になさったという機転、感銘いたしました」
「いや、それこそ戦国を生きのびるための知恵であったろう」
本多侯はそういって、
「用を終えた父老一族に渡す、しかるべき金子を、咄嗟の出発にもかかわらず、十分に用意してきていた茶屋四郎次郎をほめたい。さすがに心得のある大商人よ」
「明智方が足跡をたどっても口を割らない金額とは、いかほどでありましたろう?」
「そうさな。倅どのはいくらとみるかの?」
とつぜんに本多侯から問いかけられた銕三郎は、ちょっと考えて、
「1人に20文ずつ。父老に50文」
「ほう。大神君の命もずいぶんに安く見立てられたものよのう」
「違います。そうではありません。渡しすぎると、大金を所持していることが噂となって、野伏(のぶせ)たちの知るところなり、襲われまする」
「利発、利発。本多忠勝とならんだぞ」
相楽郡では、長谷川秀一の顔がものをいい、かねて接触のあった土地の豪族たちが道案内や食事をふるまった。(つづく)
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