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2007.06.14

本多平八郎忠勝の機転(2)

2007年6月12日[本多平八郎忠勝の機転]に掲げた地図に勘ちがいがあった。謹んで訂正する。

『覇王の家』(新潮文庫)に「この地方の山田荘という字(あざ)に入って人家の灯を見たときは、深夜であった」とあり、山田をさがして、ずいぶん南寄りだな---と疑念をいだきながら、木津の西の山田に緑ドットを貼った。

『武野燭談』のつづきは、こんなふうに記されていた。

「清滝まで出でさせ給ふ。此所にて彼の者、是より先は存ぜず、と申すに付き、彼の者を免(ゆる)し遣はし、又其辺の長(おさ)を一人引立て来たりて、間道の御案内申せと下知し、忠勝御先に立ちて木津川(地図=水色)に到らせ給ふ。
此所にして薪船の只二艘見えけるを招きぬれど、喜ばぬ顔にて居たりしを、己れ船寄せずんば仕様こそあれ、と鉄砲を打たんとす。
船の者共大いに驚き、早速船を漕ぎつくれば、則ち金銀を与へて、薪をば悉く流して棄て、君を始め、御供の人々を残らず渡し、忠勝一人残りて、その船の帰るを待ちて、打乗って向ふの岸に着くと等しく、持ちたる槍の石突を以て船底を突破りてぞ行過ぎける。斯くして井出の里に懸り、玉水にして又、案内者を捉らへ来たりて宇治田原へ著かせ給ひ---」

つまり、山田などという郷(さと)は、いたるところにある。わざわざ南下するはずはない。
木津川の東岸に井出村と玉水村(地図=真ん中の緑○)はあった。尊延寺(地図=左端の緑○)から真東にあたる。
ところが、宇治田原が見つからない。

Photo_384
(明治19年の地図。右端=黄○は山中の多羅尾郷。
その上の緑○=小川村

木津川の舟の件を、酒井直政(なおまさ)の『寛政譜』は、「大和路より河内を経て、山城国相楽(あいらく)郡にいたらせたまふ。路に川あり。(酒井)忠次小舟一艘をもとめ来たりてのせたてまつり、をのれは小鴉といふ馬に乗りて川を渡り、供奉の人々をみな渡し得て、信楽の山中を越え---」と記す。

船底を破った槍は、忠勝愛用の〔蜻蛉(とんぼ)切り〕ででももあったろうか
本多侯にお伺いいたします。中務(なかづかさ)大輔忠勝の官位からの名)どのが愛用されていた〔蜻蛉切り〕は、いま、どちらの本多さまで御所蔵でございましょうか?」
訊いたのは、14歳の銕三郎であった。

「これ、はしたない」
あわてて、平蔵宣雄がたしなめる。
「いや、かまうな、かまうな。〔蜻蛉切り〕は、この年の正月に、古河から石見国浜田へ国替えになった、中務大輔忠敞(ただひさ 33歳 5万石)どのが家宝とされていた。侯はこの九月に卒され、いまは養子に入られて家督された忠盈(ただみつ)侯が手にある。見せてやりたいが、なにぶんにも浜田では、それもかなわぬわ。はっははは」

多羅尾という幕臣を『寛政譜』の中で見つけたのは、かなり最近である。ぼくたち戦後派は、片岡千恵蔵さんの映画『多羅尾伴内』シリーズでその名を覚えており、感慨をもって眺めた。

多羅尾四郎右衛門光俊(みつとし)の項に、こう書かれている。
「織田右府に属し、旧領近江国甲賀郡信楽の小川(おがわ)に住す。
天文10年(1541)東照宮、和泉国境(ママ)の地を御遊覧のとき、六月二日明智光秀叛逆して右府生害あるよしきこしめされ、ただちに京師に御馬をすすめられるるといへども、途中にして長臣等しゐてこれをいさめたてまつりしかば、すでに台駕を施したまふべきにいたる。
このときにあたり、海道筋はことごとく敵地となるにより、長谷川秀一を郷導として大和路より河内、山城等所々の山川をへて漸く近江路におもむかせた(ま)ふ。

ここに田原の住人山口藤左衛門光広(みつひろ)は光俊の五男にして、秀一も旧好あるにより、彼宅に入御ならしむるのところ、光広飛札を走てことのよしを父光俊が許につぐ。
光俊光太(注:長男)とともにすみやかにむかえたてまつり、山田村にをいてはじめて拝謁し、それより信楽の居宅にいらせたまふ。
光俊一族等とともに甲賀の士を率ゐてこれを警護し、その夜御膳をたてまつり、種々こころをつくして守護せしかば、御前にめされ、懇(ねんごろ)の仰をかうぶる」

本多平八郎忠勝『寛政譜』の記述は、
「すでにして近江国信楽におもむかせたもふにいたり、多等尾四郎右衛門光俊人をしてわが家へむかへたてまつらむことをこふ。衆みな光秀が与党ならむかとうたがひてこれをとどむ。
忠勝いふやう。我勢寡うして危難の間にあり。素より彼に敵しがたし。
彼もし二心あらむにはたとへ行かずともかならず兵を出して我をうたむ。
さらば行くも死し行ざるも死す。
行かずして死せむより、ゆきて死するにしかじと。
衆皆此言を然りとして、御馬を多羅尾が家によせらる」

「死に場所をえらぶのは、武士の心得ではあるが、いまの世に、死を恐れないのは農民のほうかも知れないの」
本多伯耆守正珍(まさよし)は、老職に駕籠訴(かごそ)をして死罪になった、郡上八幡の村々の一揆代表たちのことに思いをはせたのかも知れない。

中務大輔さまの智勇に加えるに信の血は、侯にも紀品(のりただ)どのにも受けつがれておるやに見うけます」
宣雄の言葉に、佐野与八郎政親(まさちか)もうなずいた。

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コメント

こんど、伊賀越えをしらべていて、この変事の前から、家康の陣営には、相当数の忍者が雇われていたことが伺えました。
そのことは、池波さんもご存知で、小説にもつと書きたかったかも。

それと、伊賀、甲賀忍者くずれの盗賊を鬼平と対決させてみたかったですね。

投稿: ちゅうすけ | 2007.06.17 12:31

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