酒井日向守忠能(2)
2007年6月22日[田中城しのぶ草(4)]に、
いまは5000石の大身幕臣だが、田中城主だった先代・日向守忠能(ただよし)侯は、4万石の身代を棒にふった---というより、政敵(将軍・綱吉の側近たち)にはめられた、といえよう。
寛文9年(1669)の武鑑 『大武鑑』(名著刊行会 965.5.10)
その忠能が4万石を棒にふらされた理由というのが、いま考えると、どうにも合点がいかない。陰謀としかいいようがない。あるいは、忠能の偏屈ぶりが、よほど周囲に煙ったがられていたか。
忠能には本家の甥にあたる忠挙(ただおき)が、承応2年(1653)から寛文6年(1666)の老中在任中の亡父・忠清(ただきよ)に落ち度があったということで、16年後の天和元年(1681)12月にとがめられた。
寛文9年(1669)の武鑑 『大武鑑』(名著刊行会 965.5.10)
結果は、忠清はその年の5月に故人となっており、忠挙自身はあずかりしらなかったとていうことで、なんのことはない、一件落着。
ところが、とばっちりを忠能がかぶった。
本家の忠挙が吟味を受けているのに、忠能は参府して進退をうかがうべきなのに、のうのうと在国していたのは不謹慎でけしからぬ---と、田中藩を収公の上、井伊家に預けられた。その後ゆされたが、身分は5000石の幕臣。
福田千鶴さん『酒井忠清』(人物叢書 吉川弘文館 2000.9.20)も、延宝2年(1674)の越後・高田藩主の松平光長(みつなが)の嫡子・綱賢(つなかた)の死が発端となっておきた、いわゆる越後騒動が、綱吉が将軍となってから再審され、
「忠清の弟酒井忠能は、(忠清の継嗣の)忠明(ただあきら のち忠挙)が逼塞を命じられた際に参府して出仕を憚るべきであるのに、在国のまま逼塞したのは不敬(ふけい)とされ、天和元年(1681)12月10日に駿河国田中城を没収され、井伊直興(近江彦根)に預けられた。しかし、酒井家側では忠能が逼塞の身で何も伺いせず参府したことが不敬とされたが、実は稲葉正則(ただのり)に頼んで老中の内意を得たうえでの参府であったと主張しており(「重明日記抜粋」)、真相は不明である」と。
越後騒動は、養子候補として、光長の甥・綱国(つなくに)、異母弟・永見大蔵長良(ながよし)、甥・掃部(かもん)大六(だいろく)の3人の候補の家臣団が争い、けっきょく、家老・小栗美作(みまさか)の推す綱国に決まったが、歿した嫡子・綱賢の家臣団が傍流に押しやられたことから不満が生じて、反美作派が形成されるという、おきまりのお家騒動に発展したものである。
福田千鶴さんの長年の越後騒動研究によると、松平(結城系)一門である播磨・姫路藩主の松平直矩(なおのり)が当初、事を一門内で治めるべく調停役として奔走、その過程で大老・酒井忠清に依頼することがあったと。しかし、家臣団の対立がはげしく、けつきょく、将軍の採決をあおぐにいたった。
再審は、またも家臣団の上訴によったが、綱吉の決定は、関係者の切腹、流罪、預け、追放など。そして老藩主・光長と継子・綱国は預け、領地は収公というきびしいものであった。
それとともに、綱吉による人事一新のとばっちりが、酒井忠清一族---とりわけ実弟・忠能へのいいがかりとなって現れたといえる。
権力者の交替時には、前の権力に近かった者は、よほどに警戒を要する。
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