酒井日向守忠能
2007年6月22日[田中城しのぶ草(4)]、同月23日[田中城しのぶ草(5)]に、田中城主のときに改易された酒井日向守忠能(ただよし)侯を紹介した。
この記述に関連して、〔みやこのお豊〕さんから、改易の原因を訊かれた。
たまたま、福田千鶴さん『酒井忠清』(人物叢書 吉川弘文館 2000.9.20)を借り出すことができた。著者の福田さんは上梓当時、東京都立大人文学部助教授をしていらして、ずっと伊達騒動と越後騒動にかかわった譜代名門・酒井雅楽頭忠清(ただきよ)関連の史料をあつめておられた。
それも、同著[まえがきiに、
「近年の歴史研究では一次史料の発掘が進められ、幕末に編纂された二次的な文献資料である『徳川実紀』などによって組みたてられ、通説化した史実の見直し作業が進められている。「下馬将軍」に象徴される酒井忠清像、常に彼の専制政治の引き合いにされる伊達騒動、越後騒動、宮将軍擁立説など、酒井忠清にまつわる話は、ほとんど二次的な文献史料に基づいて描かれたものである。真っ正面から酒井忠清にむきあうにつれても彼ほど実証的な検討を経ぬまま、ステレオタイプな専制政治家として描かれた人物はいない」
とある。
いや、一次史料から再検討を要する近世史上の人物は、酒井忠清にかぎるまい。田沼意次の再評価ははじまったばかりだし、松平定信も大きく見直さなければなるまいが、学界は、各種の事情から、定説の変更をしぶるかもしれない。
とにかく、いい史料がみつかったと、酒井忠清の実弟である日向守忠能の改易の原因となりそうなページを探したが、見つからなかった。
こんなふうに『寛政譜』を書きくだしたような文章であった。
忠清の弟忠能は、寛永五年(1628)に生まれ、同九年十二月一日に将軍家光に五歳で初目見えをすませ、同十四年一月四日に父忠行(ただゆき)の遺領のうち上野国那波・佐位、武蔵国榛沢の三郡の内において二万二千五百石の分知をうけた。同十八年八月、家綱の誕生の時には、矢取の役をつとめ、十二月晦日に従五位下・日向守に叙任された。同二十年に家綱付きとなり、三の丸の奏者番つとめた。正保二年(1645)八月八日に家綱の名代として日光山へ赴き、十二月十三日にも日光山代参をおこなった。慶安二年(1649)年四月、家綱の日光社参では前駆(さきがけ)役をつとめた(略)。
延宝七年(1679) 九月六日に小諸を改め、駿河国田中城に移され、駿河国志太(しだ)・益津(ましづ)両郡、および遠江国榛原郡などの郡内に一万石を加増されて、都合四万石となった。天和元年(1681)十二月十日所領没収となり、井伊直興(なおおき 近江彦根)へ預けられた。元禄元年四月十九日に赦され、同年八月十五日に廩米二千俵を与えられ寄合に列し(以下略)
---と『寛政譜』に新味も感情も考察もなにも加えない記述がつづく。これでは、『寛政譜』をじかに読むのと大差ない。
忠能の改易までには探索の手がおよばなかったということであろうか。
忠清の役儀罷免は延宝8年(1680)12月9日である。隠居願いは翌年2月19日、病死は5月19日。
その7ヶ月後の忠能の除封である。
忠清が失敗した越後騒動が関係していたのではなかろうか。 『酒井忠清』ではそのことへは筆が及んでいない。
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コメント
ちょっとがっかりです。
酒井日向守忠能の改易が理不尽に思えたのですが、理由は解明できないですね、かえって「寛政普」の方が詳しいような気もします。
>近年の歴史研究では一次史料の発掘が進められ・<
どんな史実が発掘されるかワクワクいたします。
投稿: みやこのお豊 | 2007.07.11 07:18
昨日書店で南條範夫さんの「大名廃絶録」に飛びついて読んだもので、またいろいろこのへんの話が面白くなってきました。大名家というのは、血族のような企業のような、面白い組織だったのですね。一族の遺恨もあれば妙にさっぱり解散したりして、幕府が絶妙に暴発を抑え込んだのも感心して、徳川家を見直しました。
投稿: えむ | 2007.07.11 19:48