« 徳川将軍政治権力の研究(11) | トップページ | 堀 帯刀秀隆 »

2007.08.28

田沼時代についての若干の覚書

郡上八幡の農民一揆の裁決への、側衆・田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入・再審の詳細と、本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 4万石)の老中罷免のくわしい経緯は、ついに分明しなかったが、雅兄氏から示唆をいただいたので、全文を掲載する。(雅兄は、古来からの最高級の雅称)。

田沼意次について、幕府官僚の中でも幕末期に特別の光彩を放った川路(左衛門尉)聖謨(としあきら)が時の権力者の水野越前(忠邦 ただくに 老中 遠州・浜松藩主 6万石)に語った言葉は、深井氏のみでなく多くの歴史家が引用しているが、最近出た藤田覚氏『田沼意次』(ミネルヴァ書房2007年)でも、田沼評価での一種の基準として使われている。

深井氏もその全部を紹介しているわけではないので、次に原文(『遊芸園随筆』吉川弘文館「日本随筆大成」第1期23 167~168ページ)の読み下し文をあげておく。
 
五月九日、(水野)越前守(忠邦)どのと御物語の序でに、近来の執政の優劣を評して申しけるは、田沼主殿頭(意次 おきつぐ)どののご事世によろしからず申し候えども、よほどの豪傑にはをはしけり。ただいま享寛(享保・寛政)のご政事ご改正のころに向かひ、かく申さむはいかがの様に候えども、さりながらその証のこれあり候故、お聴(きき)に入れ候にて候。

(田沼)主殿頭どのもお側ご用人よりご老中にならせられ候。初めは必ず世にも称え奉り候御人にこそ候べき。そのわけは宝暦八年の金森(兵部少輔頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石)の一件にて、本多伯耆守(正珍 駿州・田中藩主)どの(老中)お役召し放たれ、金森ならびに本多長門守(忠央 ただなか 若年寄 当時寺社奉行 遠州・相良藩主 1万5千石)のお願に相成りたる、みな主殿頭殿の手に成りけるものと見え候ところ、右のご政事はよほどよく出来たる様に、その頃の書物(ここは資料類の意味)ども見候ても存ぜられ候様にござ候。
【割注】「評定所に金森一件の帳面あり。阿部伊予守(正右 まさすけ 寺社奉行 芸州・福山藩主 10万石)家に、その頃寺社奉行にて取り扱ひ候書留の帳面これあり候。右等によりても、主殿頭どのの躰(てい)はほぼ知るるなり。」

そのほか、同時代に石谷備後守(清昌 きよまさ 500石のち300石加増)を挙げ用ひられけるに、同人世に勝れたるよき奉行にて、今にいたり候まで、佐渡も長崎もご勘定所も、備後守の跡を以てよりどころとする事にて、備後守正直の豪傑なるはおしはかれ候事に候。同人をかくまでに遣われたるは、そのおん身にも正直の豪傑のお心ありたるなるべし。

しかるに上の御覚えもよろしく。天下靡かずといふことなきにいたって、いつか驕慢の気起こりて、その弊ついに松平(松本の誤記)伊豆守(秀持 ひでもち 勘定奉行 500石)がごとき、利口にて御用弁よきものを用ひられ候故、用は足り候へども無利(無理)なることのみ多く、人しらず人望を失ひて、終りには世にもうとみはてられ候て、天明末年のお姿とはならせられたり。

今の人は主殿頭どの全終(終わりを全うする)ならざるによりて、奢侈賄賂のことは田沼時代などといひて、主殿頭どのを以て骨髄よからぬ人のごとくにいふは、気の毒千万なることとと存ぜられ候。

これ畢竟ひとたび天下の権を取り給ひて、誰たがふものなきより驕慢の気は甚だしくなりて、日々に私心専らに成り行き、良心は失ひはててをこなる御事ども多くなり候故に、後世よりはよきことはことごとくに捨て、悪事のみいふことになり候かに候。

それと申し候も一心の置き所よりとは申しながら、平よりお用ひの人に、ご用立ち候より、貞実のものをお撰びなされ候はば、少しはご諫言をも申し、身を捨てまじく候へども、お気の障る位の儀は申し候て、相保ち申すべく候へども、末に至りては利口にてご用弁よきもののみお用ひ故、後年はともかくも先ず当時のご一応そのほかの事のみに流れ行きて、主殿頭の相輩も大いに衰へたるものかと存ぜられ候と申し候ところ、至極もっともなる心附きに候由(越前守どのが)仰せられ候事。

I氏の見解
この中で川路が金森一件の裁きを批評する際に参照している資料は、評定所にある帳面と、阿部伊予守の家にある書留の帳面の二つだが、深井氏が指摘するように後者は例の「御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)」に違いない。
評定所に保存されていたという帳面は多くの調書を含んだ公式の記録だろうが、天保以降三度にわたる江戸城の焼失の際に失われた可能性が高い。
つまり、川路は今日見るよりもずっと詳細な記録を読みこなした上で、この事件に対する田沼の処理の見事さを賞賛していると考えられる。

ところで、川路のこの文章は多くの先学が引用しているのだが、彼がなぜこうした重要な記録にアクセスできたか、またどんな関心から過去の事件や政策を調べようとしたか、などに触れた研究はない。

まず勘定所の記録等については、天保2年(1835)に勘定組頭、同6年(1839)に勘定吟味役に任命されているから、勤勉な彼のこととて資料類を丹念に研究した可能性は十分あるだろう。
問題は金森一件である。上記の水野越前との物語の時点では、川路は小普請奉行になっていたが、その程度の役職では評定所の記録に触れることは許されるわけがない。
(若い時に評定所の書記役をしていたこともあるが、過去の重要書類を勝手に見る権限はもちろんない)。また、備後福山藩10万石の阿部家の秘録を見せてもらうなど、言い出すこともはばかられるはずだ。

謎を解く鍵は〝仙石騒動〟にある。
複雑怪奇なこの事件を簡単に要約するのは難しいが、当面の問題に必要な範囲で述べる。

その頃但馬出石藩(5万8000石)では、財政危機を乗り切る方策での重商主義的積極派と保守派の激しい対立が起こり、一門家老同士の根深い抗争が続いていた。

たまたま若い藩主政美(まさよし)が病没した後、後継をめぐるお家騒動もからんで、争いは泥沼化し、その中で、積極派の仙石左京が実権を独占する。

左京は実子小太郎の妻に幕府老中・松平(周防守)康任の姪を迎えていたが、幕府組織を動かすのにこの閨閥を利用したらしい。

一門の反対派・仙石弥三郎の用人の神谷転がたまたま左京の幕府要人を抱き込んでの陰謀を知り、国元の親友の河野瀬兵衛に急報したが、それを察知した左京は河野を捕らえて処刑し、さらに神谷を情報源と見て捜索する。

あやうく江戸藩邸を出奔し、虚無僧に身をやつして普化宗の本山の小金井の一月寺に潜んでいた神谷は、左京派の要請を受けた町奉行所の手で外出中に捕縛された。虚無僧(普化僧)の特権をたてに寺側は神谷の身柄引き渡しを要求したが、老中・松平康任の権勢をはばかる奉行所はこれを拒否し、幕府を巻き込む騒動になった。

ここで寺社奉行の井上(河内守)正春(まさはる 陸奥・棚倉藩主 5万石)からこの件の調査を命じられたのがその下で吟味物調役をしていた川路で、隠密の間宮林蔵も使って綿密な調べを行った彼は、神谷の忠誠を認め、逆に仙石左京の江戸召還と審問を進言したが、町奉行や勘定奉行は容易にはこれを認めようとしなかった。

情勢の突然の急変をもたらしたのは将軍・家斉の介入で、事件の吟味は寺社奉行の手に移されることになり、家斉の信頼する寺社奉行・脇坂(中務大輔))安董(やすただ 播州・辰野藩主 5万1000石 )の下で調査の実権は川路の手にゆだねられたのである。

この時に川路は、脇坂から直接に伝えられた将軍の上意を受けて、あらゆる資料を調査したはずで、特に幕府の要職を巻き込んだ騒動の判例として、郡上騒動の一部始終は徹底的に研究したに違いない。
老中のからむ事件と知れてからはいわゆる五手がかりの合議となり、左京の獄門など関係者の重罪のほかに、郡上騒動以来の世情を騒がす幕閣内の処分もあって、一件落着となった。
こうした経緯で川路が郡上一件の記録に当たったとすると、今日のわれわれよりはるかに多くの正確な記録を利用できたはずで、その上に立って田沼の主導権を認め、その裁きの優秀さを賞賛しているということを、十分考慮しなければいけないと思う。

|

« 徳川将軍政治権力の研究(11) | トップページ | 堀 帯刀秀隆 »

020田沼意次 」カテゴリの記事

コメント

大変貴重な資料のご紹介ありがとうございます。
興味深く読ませていただきました。
ここで出石の「仙石騒動」が出てくるとは。
出石は好きな城下町の一つで訪れたことがあります。
仙石騒動の立役者家老仙石左京の屋敷は現在一般公開されています。

投稿: みやこのお豊 | 2007.08.28 23:35

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 徳川将軍政治権力の研究(11) | トップページ | 堀 帯刀秀隆 »