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2007.09.01

天明7年5月、御庭番の風聞書

御庭番が、天明7年(1787)5月20日から24日におよんだ江戸の暴徒による打ち壊しを隠密した風聞書を、深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)第3編[第3章 徳川幕府御庭番の基礎研究]から引用している。

2007年8月31日[先手組に鎮圧出動指令]には、御庭番に秘密指令を下したのは、側衆のひとり---小笠原若狭守信喜(のぶよし 70歳 7000石)ではなかってかと、深井さんは推理した。

風聞書にある次の1項目から、命令を出したのが田沼意次(おきつぐ)グループではないらしいことが推量できる。もし、田沼一派が風聞書を受け取ったのであれば、この項目はたちまち抹殺・破棄されたであろうと思えるからである(風聞書は現代文に置き換え)。

一 5月20日ごろ、市中の米屋どもの囲米の吟味をした際、田沼主殿頭(注:この時期はまだ老中兼御用であるのに敬称がない)の深川佐賀町の抱え町屋敷の米蔵も吟味され、封印をつけたが、なんの申し立てもなかったよし。そのときは主殿頭はじめ家来の者まではなはだ気遣いしたよしであります。町方の吟味にまかりこした与力・同心は米屋どもから聞き取りをはじめたので、田沼のかかえ屋敷の吟味までいたらなかったよし、風聞つかまつりました。

騒乱のきっかけは、江戸の米価が暴騰し、1両で2斗しか買えなくなったのと、売り惜しみする米屋が続出したことによるわけで、田沼が抱え屋敷としている町屋の米蔵に、その量は不明記ながら、米を蔵していたことが不当らしい口調になっている。

この件についての後報は残っていないようだが、これが田沼弾劾の項目にはあがっていないところをみると、取り立てていうほどの量ではなかったのかもしれない。

とすると、この風聞書はなんのために書かれたのか、邪推したくなってくる。
小笠原若狭守信喜だが、養父・三右衛門信盛(のぶもり)は吉宗にしたがって紀州から江城に入り、小納戸として吉宗の側近く使えた仁。信喜は、紀州藩の士・大井家からの養子---というが、養父の実弟・武右衛門政周(まさちか)が大井家の当主となってて養子に入った、その子であるから、伯父のところへ養子にきたといえる。養父の卒後、のちの家重の小納戸として出仕し、病気で一時勤めを引いた時期もあったが、家基の養育係などを経て家治の側衆の一人になっている。
か同じ紀州藩出身として、年齢的にも田沼と近く、あえて反対派にまわるいわれは見当たらない。
また、松平定信が政権をとってから、一族ではげしく取り立てられた者も見当たらないから、一橋治済(はるさだ)や定信とも距離を置いていたとも見られる。要するに、御庭番を掌握する立場にいたのであろうと思っておく。

御庭番の風聞書だが、どこまで正確なリポートかは、判断しかねる。

例をあげると、2007年8月29日[堀 帯刀秀隆]で、堀 帯刀が騒乱直前に知り合いの米屋の米を100俵近く屋敷に預かったというリポートがなされているが、そのことによって堀 帯刀が処分されたフシはない。彼は、翌天明8年9月に持筒頭へ一種の栄転をしている。
北町奉行・曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)が、騒ぎがおさまってすぐに左遷されたのとはまったく異なる。
ということは、風聞書の信憑性について、上のほうでは、そのウラを別にとっていたとも類推できる。

余談を。
小笠原若狭守信喜の本家の祖・信濃守長高(ながたか)は、今川の家臣であった時、遠江・山名郡浅羽(現・袋井市)の馬伏(まぶし)城を預かっていた。
『鬼平犯科帳』巻11[穴]の京扇屋〔平野屋〕の番頭・茂兵衛の現役時代の]〔通り名(呼び名)〕が〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛であった。この城名からとったものである。
〔馬伏〕の茂兵衛

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