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2007.09.07

『よしの冊子(ぞうし)』(6)

隠密として働いたのは、目付(1000石格)の下の徒(かち)目付や小人(こびと)目付たちと、その配下の者たちだから、どうしても視線が低くなるのは否めない。
その点で、長谷川平蔵と同時代の記録という貴重性が、若干、薄れるのも仕方がない。

よしの冊子(寛政元年2月12日より) 

一. 去年の暮れ、(松平(久松))左金吾(定寅 さだとら 2000石)が下総常陸あたりの御下知御用を仰せつけられ、与力3人が在方(勘定奉行支配地)へ出張したよし。
左金吾組(先手 鉄砲の8番手)は与力5騎なので、3人も遠国へ出てしまうと、残った2人の与力でどうして仕事をこなせるかと話しているよし。
かつまた、右の仕事は本役へお命じになるのが筋なのに、どうして加役(火盗改メ・助役)の左金吾へ命じられた根拠はなんだろうと噂しているよし。

一. 左金吾はますます評判がよく、よほど気根のよい人で、宵廻りは暮れ時から四ツ(十時)ごろに帰り、夜廻りは八ツ(午前2時)から明け六ツ(6時)時まで廻り、たいてい歩きのよし。
昼は登城の前にも吟味があり、退出後も吟味をし、暮れからは巡回に出るよし。
昼夜ともよくつづくことだと感心されているよし。

一. 松平左金吾どのは(松平)越中守(定信 さだのぶ 老中首座)様よりのご内意で、岡っ引きを使っていないよし。
格別よろしきよし。
岡っ引きを使わなくても盗賊はけっこう知れるもののよし。在方でも村役人にしっかりと掛け合えば、岡っ引きは用なしのよし。
江戸でもこの節、芝あたりなどで「金鍔」とかいう博徒の岡っ引きがわがままな振る舞いをしているよし。

一. 神田の岡っ引きが、盗賊どもを密告して召し捕らせたよし。盗賊の内、敲き放しの者が意趣をふくみ、この岡っ引きを須田町で切り殺して逃げたよし。

一. 堀 帯刀(秀隆 ひでたか 1500石 長谷川平蔵の前任者)が(火盗改メの)本役についていたとき、組の同心が按摩と口論になり、かつまた同心が麹町で六尺に打たれ、誤証文を差し出した一件、期間も過ぎたので、帯刀は右の誤証文のことを伺ったところ、その義にはおよずと、お下げ札で下がり、帯刀は大悦びのよし。組与力なども悦んでいるよし。

一. 松平左金吾は、先ごろまではいたって評判がよろしかったが、あまりに厳しすぎるのと、むずかしすぎるので、このごろはかえって評判を落としているよし。西下(老中:松平定信)も大分不首尾になったそうだといわれているそうな。
 
  【ちゅうすけ注:】
  左金吾が本役・平蔵の冬場の助役として火盗改メに任じられて
  から半年も経っていないのに、もうメッキがはげはじめている。

一. 長谷川平蔵)は先ごろまでの評判はさしてよくなかったが、町方で奇妙に受けがよくなり、西下(松平定信)も平蔵ならばと申されるようになったとか。
町々でも平蔵さまさまと嬉しがっているよし。もっとも 平蔵 は気取り、気功者で、よく人の気を呑みこみ、借金が多くなっていることはすこしも気にせず、与力同心へは酒食をふるまって喜ばせ、または夜中に囚人を町人が連れて行ったときには、早速に受け取らせ、すぐに蕎麦などを申しつけてふるまっているとか。
飯を出しても冷飯に茶漬けでは人も嬉しがらないが、さっと蕎麦屋へ人を遣わして蕎麦でも出せば、町人はご馳走になった気になり、恐れ入り、ありがたがっているよし。
どうもこの節は長谷川のほうが評判がよろしく、このあいだも左金吾の与力がどうしたことか十手を盗まれたことがあり、そのことを左金吾へ届けたところ、もってのほかの立腹で、これはお支配方へ申し上げずばなるまいと平蔵へ相談したところ、せせら笑って、そのようなことがどうして申し上げられるものか、思ってもごらんなさい、大切な公儀の道具でさえ、番をしていても盗まれるではないか、人が殺傷されたというのなら大ごとだが、盗まれたぐらいのことは仕方がない。また多勢に無勢なら取られることもあろう、そんなことをどうして届けることができるものか、といったので、お支配方へ届けるのはやめにしたよし。

  【ちゅうすけ注:】
  公式主義の左金吾、融通無碍(ゆうずうむげ)の平蔵

一. 先年、平蔵が権門へ取り入りしはじめたのは、
「私儀、布衣(ほい)に仰せつけられなければ、父の廟所へ参詣することは相いならぬとの亡父の遺言がありますので、只今まで亡父の寺へ参詣もできずにおります。なにとぞ布衣に仰せつけられますようお願い申します」
と嘆いたので、それは不便なことだ、と権家にても沙汰なさったよし。権門への嘆きはじめは右の次第であったそうな。とにかく利口の人だと噂されているらしい。
  【西尾注:】先手組頭には布衣(ほい)の受爵資格があるのを、こ
  のリポートの隠密は知らない。それほどレベルが低いことの証
  拠。こういうのを馬脚をあらわすという。
  2007年6月8日[布衣(ほい)の格式]

一. 長谷川平蔵組の同心:鈴木某は、四谷新宿で顔を売っている遊び人で、先年の加役の時分は新宿で威勢よく、賄賂をおびただしく取り、大いに遊んでいたが、去年、長谷川が本役についてからは、規律がきびしくなり、一銭も賄賂をとることを禁じられたので、鈴木某は近頃は手も足も出ず、これではたまらぬと歎息の様子。このごろは本役加役とも賄賂はすこしもとり兼ねるそうな。


この鈴木同心と、京極備前守の一族・甲斐守高有の屋敷とそこに巣食っていた盗賊(史実)、それに麹町6丁目の呉服太物店〔いわき〕の盗難をアレンジ、『夕刊フジ』の連載コラムに[過去は問わない]と題して寄稿。

「もし、鈴木さま。お耳をちとお貸しくださりませ」
長谷川組同心:鈴木某を小声で呼びとめたのは、内藤新宿の隠れ娼妓屋〔胡蝶〕のあるじ、庄助だった。
長谷川平蔵が組頭に就任する前、鈴木はこの店の常連……とはいっても、役人風をふかせて正規の料金2朱(1両=10万円として2万5000円)の半分以下で遊んでいたのだが。

平蔵が火盗改メ・本役に就(つ)いた天明8年(1788)からこっち、この3年半というものは、足がすっかり遠のいていた。
見廻り地区替えで市ヶ谷、四谷、千駄ヶ谷、新宿の担当となり、〔胡蝶〕の前を久しぶりに通って呼び止められた次第。

庄助が鈴木同心をもの陰へみちびいてささやくには、昨日から居つづけている男が、遊び賃として盗品らしい反物3本を預けたのだという。
「あいわかった。適当な口実をもうけて帰らせろ」
出てきた中間ふうを尾行していくと、なんと、平河天満宮(千代田区平河町1丁目)のはす向い、但馬・豊岡藩の京極高有(1万5000石)の上屋敷のくぐり門へ消えたではないか。

Photo
(緑○=京極甲斐守屋敷。赤○=呉服木綿店〔いわき〕)

ことの次第を報告すると、平蔵がいった。
「ようやった、鈴木。ついでだからも一と働きしてくれい。旬日前に、豊岡侯の屋敷と目と鼻の先、麹町6丁目の呉服商〔いわき屋〕へ入った賊が金品を盗んでいった。そこでだ、その方が尾行した男が親分と仰いでいる者をつきとめてもらいたいのだ」

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(『江戸買物独案内』 文政7年 1824刊)

18歳の京極高有は、若年寄・京極備前守高久(丹後峰山藩主。1万1000余石)の五男で、1年前の寛政3年(1792)春に養子の入ったばかりだった。

平蔵はその晩、木挽町(こびきちょう)の私邸へ備前守を訪ねて事情を説明し、豊岡侯の中間部屋を監視する許しをもとめた。
備前守高久は小説では平蔵の理解者として描かれているが、史実ではこの火盗改メの長官(かしら)のやり方をあまりこころよくは思っていなかった。

さて、豊岡侯の中間たちを見張っていると、はたして、屋敷の南東角に置かれた辻番所へ詰めている勘太が、じつは相模生まれの泥棒の首領…〔鴫立沢(しぎたつさわ)〕の勘兵衛らしい。
が、そこが中間部屋とはいえ、大名屋敷へむやみに踏み込むわけにはいかない。
一味が仕事に出かけるのを待って捕らえた。

そのやり方も、京極備前守は気に入らない。平蔵を城中の執務室へ呼びつけ、
「その者が盗人とわかったときに知らせてくれれば、お払い箱にできたものを。
それから捕らえても遅くはなかったのではないのか?」

帰邸後、鈴木同心に対したときの平蔵はすでに温顔をとり戻していた。
「こたびの気ばたらき、みごとであった。それにつけても馴染みの店は大事にしておくものよな」
鈴木某が「この長官のためなら…」と思いさだめたことは間ちがいない。

【つぶやき:】
史実をもとに、若干の推察を加えたものであるが、小説とおもっていただいても一向にかまわない。ただし鈴木同心や盗賊など、人物・店名はすべて実名。

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コメント

権門の布衣の件は2007年6月8日の「Who's Who」『布衣の格式』に詳しく述べられていますね。

投稿: みやこのお豊 | 2007.09.07 15:54

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