『よしの冊子(ぞうし)』(20)
『よしの冊子』(寛政2年(1790)12月1日つづき)より
長谷川平蔵は,かつて手のつけられない大どら(放蕩)ものだったので、人の気をよく呑みこみ、とりわけ下々の扱いが暖かく行きとどいていて上手のよし。
役向きで質屋などへ申し渡すときにも、こっちなどもまえまえ質に曲げたことがたびたびあったが、質屋にはなんとも合点がいかない。
腰のものを例にとると、こしらえの値ばかりふみ、太刀の生命である刀身についてはいっこうに評価しない、などと冗談混じりに痛いところをつくので、質屋も笑い出す始末。
吟味も相談するような調子ですすめるので、町奉行と違い、ものも言いよく、恐れずに申し出られると行き届く様子。町奉行はとかく大げさになり、刑罰も重く言い渡されるので、盗賊をつかまえてもめったには渡さない様子。
【ちゅうすけ注:】
この『よしの冊子』のもとである隠密たちのリポートは、松平定信
の家に厳秘に付されて伝えられてきた。
「老中職になった者以外は覗くこと厳禁」といった意味のことが、
定信の手で書かれていたという。
それが、世に現れたのは、桑名藩の老職・田内親輔(月堂)が、
ひそかに抄本をつくって『よしの冊子』と命名し、同藩の篤学
の士・駒井忠兵衛乗邨に託して、副本を作らしめた。
乗邨は自分の写本叢書『鶯宿雑記』中に収録した。
これが昭和7年になって森銑三氏が『本道楽』に4回にわたって
分載、初めての陽の目を見た。
が、その中には、長谷川平蔵についての記載はない。
とすると、長谷川平蔵が若い自分に「大どら」であったということ
を、池波さんはどうして知ったのか。
収録した中央公論社『随筆百花苑』刊行は、第8巻(1980.12)
第9巻(1981,01)。
『鬼平犯科帳』シリーズの第1話[唖の十蔵]の『オール讀物』発
表は1968年新年号。
『夕刊フジ』の連載コラムに「よしの冊子」この質屋の話をふくらませて[老人力の活用]とした。
「かねがね、機会をみてお手前がたに教えてもらいたいと考えていたことがござってな。いや、はや、はずかしながら、身どもが大どら(放蕩)だった若き日には、お手前がたの店へたびたびお世話になったものだ」
江戸には2000軒と定められている質屋の、当番の世話役---月行事(がちぎょうじ)の20人ほどを、三ッ目(墨田区南部)の自邸へ呼んだときにも、長谷川平蔵はいつものくだけた口調ではじめた。
「厳父の目をかすめて持ちこんだ伝来の腰のものを、お手前がたは刀装…こしらえばかり値ぶみして、刀剣の生命である刀身はいっかな評価しないのは、どういった次第からかな」
「申しあげます」と切りだしたのは南鍋町2丁目裏(中央区銀座6丁目)の〔近江屋質店〕の当主。この業種に特有の青白い顔をしている。
「お武家さまが腰のものを質入れなされたら…」と解説した。刀剣は柄(つか)の先端の縁頭の細工と材質、目貫(めぬき)の形、柄糸(つかいと)の色、、鍔(つば)元の止め金のはばきと中央の切羽(せっぱ)の材質、鞘(さや)と下緒(さげを)の色模様を書きひかえるが、刀身は寸法のみで銘は見ないきまりになっているのだ、と。
「武士の魂もお手前がたにかかっては算盤の玉のひとつでしかないということか」
平蔵の皮肉を冗談につつんだいいようを、代表たちは笑声でうけとめた。
「ところで足労させたは、刀剣を質入れするためではない。賊どもの跳梁(ちょうりょう)は承知のとおりだ。奴らが頼りにしているのが故買屋とお手前がた…」
で、その齢でもないのに隠居している仁は、火盗改メにしばらく手を---いや、脚を貸してほしい。20人ばかりでいい、なに、公儀のご用といっても、組の同心と連れだって質商をまわり、不審な入質品の有無を聞いてまわるだけだ。
「のう、〔近江屋〕。その方のおやじどのも隠居の身と聞く。お天道(てんとう)さまの陽の下を歩けば、これまでの日陰での半生も日焼けで帳消しになるだろうよ」
隠居した〔近江屋〕彦兵衛が盗品をひそかに買い入れていたことを皮肉ってもいる。
平蔵はこうもいった。
「武士の身上が胆力なら、質屋のそれは眼力であろう。ご隠居どのたちは長年、その眼力を鍛えぬいている。それを借りたい」
一同に異論はないばかりか平蔵の柔らかな人あしらいぶりが、あっという間に江戸中の質商へ伝わり、緻密な情報網となった。
また、眼力を認めているといわれた隠居たちは、もうひと花咲かせる気になり、すすんで日焼けした。
当節は、今日の市場の売れ筋をPOSで吸いあげているが、1か月先、半年先の、まだ顕在化していないマーケットの動向は、第一線で販売に従事している生身の目と勘でなければとらえられまい。平蔵の狙いもそれだった。
【ちゅうすけ注】
本文に、「盗賊をつかまえても(町奉行所には)めったには渡さな
い様子」とあるのは、町方の者が捕まえても、町奉行所に連行す
るのではなく、役宅としても使っている長谷川邸へ連れてくる---
という意味。
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