« 一橋治済 | トップページ | 一橋治済(3) »

2007.11.28

一橋治済(2)

相良の郷土史家・故・後藤一朗さんの『今日の相良史話』(相良町教育委員会 1975 9.20)から、[一橋幕府説]にまつわる主張を引用している。

八代将軍・吉宗(よしむね)は、将軍家に世嗣が絶えた場合のことをおもんぱかって---との理由づけをして、自分の子たちで、田安一橋家、さらには清水家を立てたが、城地なしの10万石、家臣もなしで幕臣の出向という形をとったと、史書はいう。
建前はそのとおりだったろうし、ほとんどの家臣は出向者だったろうが、どんな場合にも例外はある。
一橋の家老を勤めていた田沼意次の実弟・能登守意誠(おきのぶ)の卒後、その長子・意致(おきむね)も家老になったのは、もちろん、意次の意向があってのことだろう。

岩本内膳正(ないぜんのしょう)正利(まさとし)の場合は、もっとこみいっている。
岩本家の祖は、甲斐国巨摩郡(こまこおり)岩下村に住したので岩本を称したが、武田が滅んでから徳川につき、紀伊大納言頼宣に仕えた。
三代目・正房(まさふさ)が吉宗に従って江戸入りして幕臣となり、先手・鉄砲の組頭にまでなった(廩米300俵)。

_360
(赤○=大奥づとめ。下段赤○=於富の方、家斉の生母)

正房の養女は大奥に入り、末弟・正信(まさのぶ)が一橋宗尹(むねただ 第四子 1721~1749)に長く仕えたと『寛政譜』にある。

大奥に入った養女の縁からであろう、早逝した兄・正久(まさひさ)に替わって家督した正利(まさとし)は、大奥の老女・梅田(うめだ)の養女を娶り、むすめ・富子が一橋中納言治済(はるさだ)の長子・豊千代(とよちよ)、のちの家斉(いえなり)をもうけた。

1_360
2_360

豊千代こと家斉が江戸城・西丸に入るとともに、とうぜん、於富の父・正利は栄進していく。廩米300俵は2000石にまで加増され、老中首座・松平定信が罷免され、治済が大御所然として西丸に入った寛政5年(1793)には西丸の留守居になっている。

『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)は、岩本家にはまったく触れないが、治済が握った権力については、つぎのように話す。

(寛政の改革と呼ばれている保守志向の)改革政治は、松平定信を起用し彼を老中首座の名で表面に立たしめ、治済自身はどこまでも蔭で糸をあやつるからくり師であったのです。(略)

家治の死と、田沼の失脚によって、一橋治済には、わが世の春が来た。治済は家治の葬送直後、一四歳の長男家斉(実は第四子で母は於富の方)を新将軍とし、自らは、陰の大御所の座にすわり、国政の実権をにぎって、権力をほしいままにした。彼はこのようにして徳川宗家を乗っ取ったほか、(注:天明8年に)三男(注:じつは五男)斉匡(なりまさ)を田安家に養子にやって同家をその手に収め、自家は四男(注:じつは六男)斉敦(なりあつ)に継がせた。(l略)

それらのことよりも、治済の勝手気ままをいうなら、
・安永8年(1779)12月25日 毎歳賜金3000両
・天明4年(1784)6月2日   毎歳賜金1万両
・文化2年(1805)1月18日  毎歳加賜金7000両、通前1万5000両
と幕府から金をむしりとっていることである。
とくに天明4年といえば浅間山の噴火や飢饉で、多くの人びとが苦しんでいたのにである。不思議な神経の持ち主というべきであろう。
別にあたえられていた10万石は、10万両に換算できる。  

|

« 一橋治済 | トップページ | 一橋治済(3) »

096一橋治済」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 一橋治済 | トップページ | 一橋治済(3) »