与詩(よし)を迎えに(4)
「駿府の朝倉ご奉行(仁左衛門景増 かげます 61歳 300石)の2番目の奥方は離縁---また、何ゆえでございましょう?」
銕三郎(てつさぶろう)は、うっかり質(き)いて、恥じた。
他家の内緒(ないしょ)ごとに立ち入ってはならぬと、父・宣雄(のぶお)から、きつく言われている。
中根伝左衛門正雅(まさちか 76歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)が応えた。
「さあ。そこまでは、届け書には記してありませんが、女子の出生届けと、奥方の離縁届けが同じ日になっているところをみると、その女子の誕生にかかわることかもしれませんな」
「その、女子の誕生は?」
「宝歴8年だったような---」
「と、すると、いま6歳---」
「そうなりますかな」
「冗談ではない。与詩(よし)だ」
「いま、なんといわれました?」
「いえ。なんでもありません」
「そうですか。それで、同じ年に3番目の奥方をお迎えになり申したが、なんでも、20歳のお若い女性(にょしょう)だったようです」
「志乃(しの)どのです」
「ほう---」
「わが家に養女にきた多可の、従姉(いとこ)です」
「すると、]陸奥・守山藩(2万石)の江戸藩邸の三木---忠大夫(ちゅうだゆう)と申されたかな。そのご仁の---」
「兄の子と聞いています」
「銕三郎どの---」
「はい」
「長谷川どのには内緒にしてくだされますかな」
「なんでございましょう?」
「その、2番目の奥方のことじゃ」
「つまり、6歳の与詩の実母---」
「そのお方は、駿州の天領地のご代官・平岡彦兵衛良寛(よしひろ 51歳 200俵)の妹ごとなっており、朝倉どのが駿府のご奉行に赴任されときに、身辺のお世話をしていて、奥方になられたようで---」
「------」
「それが、平岡どのの実の妹ではなく、養女---」
「養女?」
「滝川家ゆかりの女性(にょしよう)らしく---」
「滝川といわれますと、織田右府(信長)さまの重職だった?」
「はい。しかし、その女性(にょしょう)の父親・滝川無久(むきゅう)なるご仁は、徳川の家臣にはおりません。平岡良寛どのの亡父・良久(よしひさ)どのが山城の代官時代にでも知りあった、滝川一族の中の浪人でしょう。いや、出自はともかく---」
中根伝左衛門は、駿府定番から帰任した大番の番士から聞いたところによると---平岡家の養女を、赴任してきた朝倉ご奉行の身辺のお世話をするように持ちかけたのが、平岡代官だったとか。そのときも、その女性(にょしょう)は20歳をすぎているように見えたと。
朝倉奉行は53歳だったから、女性(にょしょう)の年齢は気にならなかったろうと、彼女が妊娠して2番目の奥方になおったときの、番士たちの無責任なうわさだった。
宝暦8年(1758)---すなわち、与詩が生まれた年、守山藩(2万2000石)の江戸屋敷居住・三木久大夫が、藩主・大学頭頼寛(よりひろ)が幕用で駿府に停泊したとき、とつぜん体調をくずして旬日の滞在となった。久太夫は何度か町奉行の朝倉景増と打ちあわせで会っているうちに、亡妻とのあいだにできていた娘・志乃を江戸から呼び、臨月に近い2番目の奥方に代わって身辺の世話がかりにする話がついた。
そして、奉行はこの20歳の志乃にも手をつけ、たちまち懐妊。そのことが2番目の奥方の耳に入るや、重い気欝になり、やがて、離縁ということにまでなった。
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