与詩(よし)を迎えに(18)
【ひとり言】
きょうは、全部、ひとり言を記す。わざわざ、ひとり言と断ったのは、長谷川家に直接にはかかわりがない史実だからである。
とはいえ、養女・与詩(よし)の父親・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 駿府町奉行 300石 1000石高・役料500石)に関する部分も大きいから、与詩にも、そのDNAが伝わっているかもしれない。
きのう再掲した景増とその子どもたちの『寛政譜』の個人の項を、くどいとおもわれても、すこし加筆して掲げる。
まず目を引き、ふっと疑念が生じたのは、景増の嫡男・主殿(とのも)光景(てるかげ)の項に、「母は某氏」とあったこと。
『寛政譜』で「母は某氏」とあったら、武家のむすめではないとおもっていい。奉仕している家婦(小間使いや下女)が真っ先にうかぶ。
しかし、幕臣の場合、正妻以外のおんなが産んだ庶子が長男であっても、正妻に男子がいれば、その子が継嗣となるように定められている。
江戸期に流布した著者不知『武野燭話』に、こんなエピソードも記されている。
2代将軍・秀忠夫妻は、長子の竹千代(のちの家光)よりも、次男の国千代(のちの忠長)を寵愛していた。そのことを憂えた家康が、両子同道での対面を伝えた。
重臣たちが居並ぶ中、家康は自分の座を指し、
「竹千代どのはここへ」
その後ろについてきた国千代へ、
「国千代はあれへ下がりいるべし」
これで、3代将軍は家光---すなわち嫡男と、秀忠も重臣たちも納得したという。
【参照】国千代こと忠長のその後の乱心・自裁の顛末は、2007年6月30日[田中城しのぶ草(12)]
で、掲げた景増個人譜の中段に、主殿につづいて、次男・又四郎正景(まさかげ)、三男・伝次郎経章(つねあきら)が記されている。
この2人の中に正妻(大木孫八郎親次 ちかつぐ のむすめ)から生まれた子はいないのかと、養子先の『寛政譜』をのぞいてみた。
まず、織田の家臣から徳川に属した兼松家の末である吉五郎正僚 (まさとも 300石)を養父とした次男・正景(まさかげ)も、「母は某氏」とあった。すなわち、脇腹の生まれ。
それでは---と、三男・伝次郎経章(つねあきら)が養子に入った先の高階家(200俵)を調べた。なんと、彼も「母は某氏」。
それぞれの生年の、景増の年齢を表にしてみた。
朝倉仁左衛門景増の年齢および3人の男子の生年
元禄16年(1703) 景増生 (1歳)
享保13年(1728) 長男生 (26歳)
寛保元年(1741) 次男生 (39歳)
寛延3年 (1750) 三男生 (48歳)
子どもたちの年齢差からいって、母親はすべて異なっていると見る。根ぐせがよくない。
冒頭の年譜の、長男と次男のあいだに山川下総守貞幹(さだもと)に嫁いだ女子がいる。
母親は不明である。 『寛政譜』は女性の名も生母もふつうは記さないからである。
景増が養女として出した与詩の妹は、志乃の産んだ女子であろうか。
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