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2008.01.13

与詩(よし)を迎えに(24)

由井では、問屋場で馬を換えているあいだに、書役(しょやく)に紙を借りて、まず、権七(ごんしち)あての依頼状をしたためた。
2日おいて3日目の朝六ッ半(7時)に、山駕籠を本陣・〔樋口〕伝左衛門方へ手くばりしてほしいこと、山駕籠はそのまま、小田原宿の本陣・〔保田〕利左衛門方まで使いたい旨を、見なれない漢字にはふりがなをつけて、簡単に述べた。最後に、再逢を心待ちにしていると付け加えた。

宛先は、権七が指定した、「箱根御関所・小頭(こがしら)・打田内記(ないき)さま気付 風速(かざはや)の権七どのとした。
当時は、「どの」よりも、「さま」のほうがより丁寧な尊称として使われていた。

打田内記が勤めている小頭というのは、関所に詰めている11人の足軽の長(ちょう)である。荷運び雲助の顔役らしく、権七は何かと小頭と接触していたらしい。

箱根関所の役人の構成は、小田原藩から派遣された伴頭(ばんがしら)の下で、定番人が3人、足軽と人見女2人となっていた。
定番人は、関所すぐ西に隣する箱根宿に在住、と定められていた。阿記(あき)の父・〔めうが屋〕次右衛門が、湯治宿という商売がら、定番人の1人と懇意にしていると言ってくれたが、このときばかりは権七の顔を立てることのほうを、銕三郎は迷わずに選んだ。

余談だが、旅する婦女に恐れられていたのは、人見女である。疑われると---というより、中年女の彼女たちの虫の居所が悪いと、素裸はおろか、髪もくずして調べ、あげくのはてに、秘部まで指でさぐられたという。いや、噂にすぎないのだが。

よみがえる箱根関所

[打田内記さま気付]との宛名と、お小十人組・5番手頭(かしら)長谷川平蔵宣雄(のぶお)内・銕三郎宣以(のぶため)の裏書を見た問屋場の書役が、
「差し出がましいことをお尋ねしまが、今夜のお泊りは蒲原(かんばら)でございましょうか?」
「さよう。〔木瓜(もっこう)屋〕忠兵衛方のつもりですが---」
「それでは、〔もっこう屋〕さんへも、馬の手くばりのお使いをおだしになっておおきになったほうがよろしいかと。蒲原宿の旅籠は、馬を常備(つねぞな)えしておりませんのです。その朝に手くばりさせますと、1刻(2時間)も待たされますゆえ」
「それはいいことをお聞かせくださった。かたじけない」

銕三郎は、三島で待っているはずの阿記への文をの宛先を、旅籠〔甲州屋〕気付としたあと、蒲原宿の脇本陣〔もっこう屋〕忠兵衛にあてて、6歳の女の子づれであること、明け六っ(6時)発(だ)ちであることを記して、馬の手配をくれぐれも頼んだ。

3通の書状はすべて早飛脚便とすることを、問屋場の書役Iに笑顔で念をおし、借りた書状紙代として、心づけをはずんだ。

由井から蒲原は1里。半刻(1時間)もあればたりるが、気になるのは、明日の馬である。馬の手配がつかないと駕籠だが、与詩が一人で乗れるかどうか。いや、箱根道での山駕籠の練習になるから、むしろ駕籠のほうがよかったかも---。

富士見橋たもとの宿屋〔木瓜(もっこう)屋〕忠兵衛方に投宿して、父・平蔵宣雄の手くばりのよさを、銕三郎は、2つもおもいしらされた。

_100一つは、〔木瓜屋〕の商標が紋所が「一木瓜(ひとつもっこう)」であることを、入り口の暖簾の染めぬきで知ったとき。
なんと、駿府の町奉行・朝倉家の家紋の「一木瓜」だった。与詩の印籠につけられている金箔(きんぱく)の紋が三木瓜(みつもっこう)だったので、まさか、朝倉家の表紋が「一木瓜」とまでは察しがつかなかった。

【参考】朝倉仁左衛門景増の『寛政重修諸家譜』

Photo「三木瓜」は、私物につける替え紋だったのである。
「一木瓜」は日下部氏の紋どころで、日下部氏は、仁徳帝の皇子から発していることになっている。その末の一と流れが越前国を領していた朝倉氏である。

忠兵衛どののご先祖は、越前の出でございますのか」
あいさつに出た亭主・忠兵衛銕三郎が訊くと、
「はい。駿府の朝倉仁左衛門さまとも、遠い縁つづきになるのでございます」
「今夜、お手数をおかけするのは、駿府の朝倉さまの於姫(おひー)で---」
「江戸のお父上さまからの文(ふみ)で、さように存じております。お世話ができますことを、こころ待ちにしておりました」
「実は---」
と、銕三郎忠左衛門を帳場へ誘(いざな)って、与詩の夜の危惧を伝えると、
「なんのご心配もございませぬ。油紙を縫いこんだ布団をつねに備えております。ご寝所も、厠へもっとも近い部屋にとらせていただきました。
それから、早飛脚でいただいた明朝の駅馬のことでございますが、お父上さまも、くれぐれもとお気づかいをなされておりますので、すっかり用意がととのっております」

いざ、寝床へ伏すだんになり、
「与詩。おむつをあててあげようか?」
「じぶんで、つけます。でも、おしろのちちうえは、ごじぶんで、できましぇんのですよ。おとなのくせに」
中風で倒れて寝たきりになった朝倉仁左衛門のことをいっている。下(しも)も独りではできぬ躰になってしまっているらしい。
それでも辞職願いを幕府に出さないのは、職務給への未練のためなのか、回復を期待しているためなのか。

その夜、隣の間に寝た藤六(とうろく)は酒をひかえ、与詩に、2回、厠を使わせた。用後のおむつを、与詩は、藤六がつけるにまかせた。
使用人は、木の幹かなにかのように見ているのかもしれない。
(薄目でその様子を見ながら、これは、改めさせなければ---と銕三郎はこころにとめたが、おむつの取替えだけは藤六にやってもらいたい気もして、ひそかに反省)

油紙入りの布団は、必要がなかった。

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