与詩(よし)を迎えに(25)
蒲原(かんばら)は六ッ(6時)の朝発(だ)ち、と決めていた。
七ッ半(5時)に、藤六(とうろく)が起きてきて、
「若。与詩(よし)さまも起こしますか?」
「おれたちが顔を洗い、房楊枝をすましてからでいいだろう」
与詩を起こしてから、おもってもいなかったことが出来(しゅったい)した。
幼女の着物の着せ方がわからない。
〔木瓜(もっこう)屋〕忠兵衛の内儀が、着せてから、うしろから袂(たもと)をまとめて歯を磨かせた。
(明朝からは、着付けの前に顔を洗わせよう)
朝飯も、食べおわらない。
一と口ずつの大きさのにぎりにして海苔(のり)でつつんでもらい、茶をいれた竹筒をもって馬に乗った。
この季節の六ッは、まだ、暗い。が、土地(ところ)生まれの馬方も馬も馴れたもので、薄暗い道を提灯に灯も入れないで東へすすむ。
富士川で、暁の陽をうけた雪が金色に染まる富士山を見た。
(北寿『東海道富士川真写之図』)
そのみごとな山容に、与詩もはっきりと目がさめたらしい。
「きれい」
「みごとだな」
馬方が口をそえる。
「きょうも、きれいな晴れでごぜえますよ。旦那さまがたはついていらっしゃる」
〔木瓜屋〕忠兵衛が、あらかじめ渡し場の川役人に通じておいてくれたので、荷をつけた馬ごと舟で対岸の松岡村へわたることができた。
いつまでも富士山を眺めていた与詩が訊く。
「あにうえ。えどで、おやまがみえましゅか?」
「お山とは、この富士のことか---ことですか?」
「うん---はい」
「見えるところと、見えないところがあります」
「あにうえの、おうちは?」
「家からは見えない---見えませぬ。しかし、近くの川端へ行けば見えます。それと、江戸には、富士見坂という名前の坂が十(とう)と五ッほど---あります。十と五ッ---わかるかな、両の手の指が全部と、も一度、右の手だけの指、五ッ---です」
「さか、よしもゆきたい---です」
「連れて行って、あげます」
「げんまん」
与詩は、振りむいて小指をさしだした。
(広重『東都名所』[日本橋の白雨])
(国芳『東都三十六景』[昌平坂の富士])
(北斎『富嶽三十六景』[礫川(こいしかわ)雪ノ旦(あさ))
吉原でお茶にした。与詩は小にぎりを食べ、厠をすませた。といっても、これが---公用宿・〔扇屋〕伝兵衛方の年配の女中の手を借りなければならなかった。与詩は、落し紙が自分で使えなかったからである。
吉原宿で馬を換え、原宿(はらしゅく)へは3里6丁(約13km)。
〔若狭屋〕九兵衛方で昼食を摂る。
沼津宿へ1里半(6km)。
銕三郎(てつさぶろう)は、少々飽きてきた与詩に、柏原から一本松のあいだ、村ごとに行きちがう女の旅人、男の旅人の数をかぞえさせ、11から30までの数を教えるなど、たわいもない会話をかわしながら、気は、阿記(あき)へ飛んでいる。
(お芙沙(ふさ)に、この子を一と晩預かってもらう話は、うまくはこんだであろうか)
沼津から三島宿へも1里半。
また、馬を換える。
三島宿へ入った。
本陣〔樋口〕伝左衛門方の向いも、本陣〔世古〕郷四郎方である。
(東海道筋に面している本陣〔樋口〕伝左衛門方=赤○)
その手前に、見おぼえのある女が2人立って、街道の西を見ている。
近づくと、やはり、阿記と都茂(とも)であった。
「寒かったであろう」
「いいえ。懐炉を入れていますから」
「阿記どの。眉をどうなされた?」
阿記は眉を落としていた。着物もうんと地味なものを着ているので、21歳から5つか6つばかり、齢をとったように見える。
「どうせ東慶寺さんのお世話になるのだからと、おもいきって---」
「ふむ。その話はあとでゆるりと、な。与詩のことは?」
「お芙沙さんが承諾してくださいました。お待ちになっております」
「お待ちに---って、与詩ではなく、この銕三郎をか」
「はい。たいそう、懐かしげで、ございましたよ。おほほほ」
「阿記は、それでも、いいのか?」
「ほほほほ」
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙]
2008年1月日[与詩(よし)を迎えに(13)]
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