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2008.02.24

南本所・三ッ目へ(2)

相良侯が羽目の間へお越しを---との仰せでございます」
茶坊主が躑躅(つつじ)の間へ、伝言を持ってきた。
相良侯とは、御側(おそば)・田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ 46歳 相良藩主 1万5000石)のことである。
城中での呼び出しとはただごとでない。
長谷川平蔵宣雄(のぶお 46歳)は緊張した。
この年の6月、改元があって、宝暦(ほうりゃく)14年(1764)が、明和元年となった。

宣雄が羽目の間へ行くと、襖が開かれ、阿部伊予守正右(まさすけ 40歳 備後国福山藩主 10万石)が出てくるところであった。
京都所司代から西丸老中に任じられていた。

ちゅうすけ補足】阿部伊予守正右については、2008年2月16日[本多采女紀品(ただのり)](5)
この日の阿部正右へのリンクもお読みのほどを。

目礼して、控えていると、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 先手・弓の16番手組頭 2000石)が茶坊主に先導されてやってきた。
茶坊主が揃ったことを室内へ通じると、呼び込まれた。

意次は笑顔で迎えて、
「なに。わざわざご足労いただくほどのことともなかったのだが、久しぶりに、お顔を見たくなりましてな」
言葉つきは相変わらず、柔らかくて、丁寧だ。
紙鳶堂(しえんどう 平賀源内 39歳)が、火浣布(かかんぶ)を発明したから披露したいといってきましてな。明後日の夕刻、木挽町(こびきちょう)の陋屋(ろうおく)のほうで、いっしょに、あやつめのうだを聞いてやるのはいかがかと---」
「参上させていただきます」

羽目の間を出たとき、書物奉行筆頭の中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 廩米300俵)が通りかかった。
「やあ、長谷川どの。ちょうど、よかった」
そういったので、本多紀品は、手で合図をして、詰めている躑躅の間へ戻っていった。

【ちゅうすけ付言】中根伝左衛門正親と長谷川家については、2007年10月16日[養女のすすめ](3) (4)

廊下の隅へ寄ると、中根正親は、
長谷川どのは、お馬医(うまい)のお家柄の桑嶋どのをご存じですか?」
「と申されると、桑嶋新五右衛門忠真(ただざね 43歳 廩米100俵)どののことでしょうか?」
「これは、失礼つかまつった」

中根書物奉行は改めて、清水門外(しみずもんそと)の野馬仕込み地をどう見るか、と訊いてきた。
「どう見るかとおっしゃられても---あっ」
「お察しになりましたか?」
「ようやくに---」

_360
(清水門外の野馬仕込み地と厩 板行・嘉永2年)

つまり、お馬方にかかわりのある旗本は、家禄が小さくても、広い敷地を下賜されている者がいるのではないかというのである。
もちろん、清水門外の野馬仕込み地や、その脇の厩(うまや)が手に入るわけではない。
考えどころのヒントである。

ちなみに、清水門外とくれば、『鬼平犯科帳』のファンは、すぐに火盗改メの役宅を連想するが、あれは小説での話で、池波さんも、火盗改メの役宅はお頭(かしら)の拝領屋敷ということは百も承知の上で、便宜上、清水門外の野馬仕込み地と厩のあいだの、幕府ご用地に仮設したのである。

参考に掲出したのは、池波さんがつねに開いては確かめていた近江屋板の清水門外である。「竹田伊豆守預かり」となっている。『柳営補任』によると、切絵図が板行された嘉永2年(1849)前後なら、竹田伊豆守忠吉(ただよし のち斯緩 本丸普請係 500石)だが、『寛政譜』記載の圏外なので確認できない。
ただ、野馬仕込み方は、馬術で仕えていた村松家の職掌であった。

「左様なのです。当初はお馬方、またはお馬医として召しかかえられたお家で、いまはその仕事をしていない旗本の中に、広い拝領屋敷を手放すことを考えている仁もいようということです」

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