明和2年(1765)の銕三郎(その7)
「ご本家の大伯父上さま」
銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため=小説の鬼平)が、本家の当主・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳 火盗改メ・本役)に呼びかけた。
「奥田山城さまと、瀬名さまは同い年の75歳でございます。奥田さまは従(じゅ)五位下(げ)と授爵もなされており、瀬名さまよりも上席のはずなのに、長老は瀬名さま、次老が奥田さまというのが、合点がまいりませぬ」
たしかに、リストを見ると、奥田山城守は弓の2番手の組頭だし、瀬名孫助は10番手でもある。
先手組の総揃えで1番手から並んだとしても、奥田山城のほうが上にきそうなものである。
2番手
奥田山城守忠祗(ただまさ) 75歳 2年 300俵
10番手
瀬名孫助貞栄(さだよし) 75歳 3年 200俵
「奥田山城どのが先手の組頭になられたのは、2年前の宝暦13年(1763)7月21日、対する瀬名貞栄どのは3年前の宝暦12年(1762)12月15日に拝命されておられる。
組頭衆の順位は、拝命した年月の早い人順ということが不文律になっている。いや、お上もそういう秩序でよろしいとお考えである。したがって、半年早く役に就かれた瀬名さまが長老、奥田さまは次老---というわけじゃ」
そう言ってから、太郎兵衛正直はにやりと頬をゆるめ、一と言つけくわえた。
「ほかの役職での順位は、拝命順だが、先手組頭だけには、その上に、もう一つ、べつの順位が働く---」
「なんでございますか?」
「火盗改メは、最上位につく」
「すると、大伯父さまが最上位ということでございますか?」
「そうじゃ。わしは偉いのだぞ」
「へへえッ。お頭(かしら)さま」
銕三郎が大げさにに平伏したので、大笑いとなった。
ちゅうすけ は、瀬名、奥田の長老、次老に加え、三老で1番手の組頭・松平源五郎乗道も含めての70歳代の組頭について、史料により、べつの感慨を持った。
1番手
松平源五郎乗通(のりみち) 73歳 12年 300俵
(瀬名孫助貞栄の「個人譜」)
(奥田山城守忠祗の「個人譜」)
(松平源五郎乗通の「個人譜」)
いずれも、家禄が廩米300俵(知行地300石に相当)、200俵(同200石に相当)と低いから、一度手にした役高の1500石は手放しがたかろうという想像である。
瀬名貞栄は、この翌年の明和3年2月29日に公式に喪を発するまで、職を辞していない。在職は足かけ5年。行年76歳。
奥田山城守は、このあと、安永2年(1773)正月まで通算で11年間を先手組頭、さらに別の職務をこなして寛政8年(1796)正月に93歳で歿するまで現役。
松平(滝脇)乗通は、明和7(1770)年まで足かけ17年間弓の1番手の組頭でありつづけた。そして職を辞したのが78歳。行年82歳。
先手の弓組の3人だけで判断してはいけないが、徳川の中期をすぎると、役職者の老齢化が問題とならなかったろうか。
もっとも、いまの高級官僚たちが、次の職、その次の職と渡っていくのも、徳川時代の習慣を受け継いでいるのであろうか。
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