平蔵宣雄の後ろ楯(3)
長谷川家の六代目当主・権十郎宣尹(のぶただ 34歳)が、いまわのきわの病床にあって、まず、実妹を養女ということにした。
狙いは、いうまいでもなく、家名を絶たないためである。
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻1[本所・桜屋敷]p56 新装版p60 に、修理とあるのは、権十郎と改める2,3年ほど前の名である。
また、宣雄が叔父となっているのは、池波さんの小説的意図で、史実は従弟。
養女にした実妹・波津(小説の中での名前)に、婿養子として娶(めあ)わせて家督させた平蔵宣雄(のぷお 30歳)の素性は、これも病身で養子にもいけずに、甥・宣尹の厄介として生家で養生していた、宣尹にとっての叔父・藤八郎宣有(のぶあり)が、看護にきていた浪人のむすめに産ませた子で、この時30歳、しかも連れ子(銕三郎 3歳)というおまけつきであった。
寛延元年春のことである。
【参照】2006年11月8日[宣雄の実父・実母]
この婿養子・宣雄を引き立てる糸口となった仁を探している。
前の回で、奥右筆の陰の力を告げるために岡本弥十郎久包(ひさかね 200俵)の名を出したが、じつは、[寛政譜]で見たとおり、この仁は、平蔵宣雄が家督を継ぐことがゆるされた寛延元年(1748)4月3日の6年前、寛保2年(1742)納戸の頭(かしら 58歳)に転じている。
後任の組頭は、蜷川(にながわ)八右衛門親雄(ちかお 44歳 250石)が引き継いだと書いた。
【参照】2008年6月11日[平蔵宣雄の後ろ楯] (2)
蜷川八右衛門親雄という仁は、[寛政譜]の後段に記されているところから判断するに、鷹揚(おうよう)というか、ものごにあまり細かくこだわらない性格であったらしい。
(蜷川親雄の個人譜)
奥祐筆の組頭となって11年目の宝暦5年(1755)11月29日、57歳の時に役を取り上げられて小普請に貶(おと)され、閉門という、重い罰を受けた。
その罪状というのが、いつだったか、同輩の久米なにがしが蜷川家を訪問して歓談した時、かねて顔なじみの町人・松木なにがしも同席し、久米に願いごとをした。
そのことについては、蜷川当人は関知していなかったとはいえ、町人を同席させたのは不正であるというのだ。
町人・松木某が久米右筆に何を頼んだかは記載されていないが、処罰の重さからいって、汚職に近い頼みごとだったのではあるまいか。
処罰の重さに驚いて、町人を私邸にあげることが、どんな条例に抵触するのかと、延享3年(1746)発布の「武家諸法度(しょはっと)」、宝暦元年の「御条目」をあらためて確認してみたが、該当する条々は見つからなかった。
さかのぼって『御触書寛保集成』(岩波書店 1934.11.15)を開くと、それらしい条文が正徳2年(1712)にあった。
現代文にして披露。
覚
一 前まえより、諸職人・町人たちへ発注するすべての役所の責任者へ仰せつけの御誓詞の内容は、受注元であるすべての職人・町人からの贈り物は、たとえ前まえには受けていた物といえども、一切受け取ることのないよう、新規に厳重に通達する。
責任者にかぎらず、妻子や召使のものも同様である。(以下略)
右筆といえば、触書や達しなどを筆写する仕事が多いわけだから、そのような文書には通じているはずなのに、八右衛門親雄は、脇が甘かったといえないこともない。
翌6年には許されているが、表右筆として召しだされていた継嗣・兵四郎親寿(ちかなが)も役職は取り上げられているから、同家の痛手は大きかった。
ついでに記すと、兵四郎親寿は、失意の生活に我慢がならなかったのであろう、6年後に逐電して行方しれずとなっている。
じつは、蜷川家の家譜には、祐筆の特質みたいな面が記されていて、興味深い。
(蜷川2家の[寛政譜])
[寛政譜]の上段は本家で、親雄が属する分家は3~4段目。
本家の初代・彦左衛門親煕(ちかひろ)は、青蓮院宮尊純法親皇の門下にはいり、入木道を伝授された能筆を買われ、五代将軍となるまえの館林侯の綱吉の神田の館に、右筆として採用された。
(入木道について不詳)。
綱吉の江戸城入りにしたがって幕臣の身分(700石)となり、奥右筆の組頭もつとめている。
五代目・養子の善九郎親贇(ちかよし)は、天明3年(1783)に、組頭・橋本喜八郎敬惟(ゆきのぶ 150俵)に、故実書法と下馬札などを伝授している。
初代の三男で分家した八右衛門親和(ちかかず 200俵)は、曽我流の書法を父から、下馬札の書法を実兄・彦左衛門親英(ちかふさ)から伝授をうけた。
親雄はその継嗣である。享保3年(1718)、家重の長子・家治に手ほどきをしているが、さて、7歳だった竹千代がどこまで習得しえたか。ふつうの手習い子は6歳の6月6日から習字をはじめたというが---。
蜷川2家の特記事項を拾い、記したことによって、右筆の家柄が察せられたとしたら、幸い。
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コメント
「平蔵宣雄の後ろ盾」の調査は気の遠くなるような探索ですね。大変お骨折のことと思われます。
でもお蔭で右筆の家柄や任務、武家の懲罰など思わぬことが解って興味ふかいです。
投稿: みやこのお豊 | 2008.06.18 00:28
>みやこのお豊 さん
この20日の、後ろ楯(6)の『旧事諮問録』と『江戸時代制度の研究』に書かれている、奥祐筆の記録で、おおよそのことはお分かりになると思います。
ぼく自身も、このリサーチで大いに教えられました。
あとは、賄賂にならない、しかも喜ばれる、つけ届けのもっていきようですね。
投稿: ちゅうすけ | 2008.06.20 11:30