平蔵宣雄の後ろ楯(7)
長谷川平蔵宣以(のぶため 小説の鬼平。家督前は銕三郎 てつさぶろう)の父・平蔵宣雄(のぶお)が、両番の家柄の婿養子になったとはいえ、六代つづいてヒラのままだったのに、突然、役付に引きあげられた経緯(ゆくたて)を類推する手がかりの一つとして、奥右筆の推挙の有無を調べている。
両番の家とは、小姓組番士と書院番士がほぼ約束されている格をもっている幕臣のことである。
銕三郎(21歳)が、京都の盗賊・〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45,6歳)の新しい妾・お静(しず 18歳)の躰を盗んだのは明和3年(1766)の初夏---病死した従兄から家督を引き継ぐ宣雄が奥右筆に縁を求めたのは、その18年前の、寛延元年(1748)の春のことであった。宣雄は30歳。
(歌麿 お静のイメージ 「蚊帳からでる女」)
【参照】 [お静という女](1) (2) (3) (4) (5)
前の回 (6) で、『旧事諮問録』(青蛙房 1964 岩波から文庫化されてもいる)から、旧幕時代の末期に奥右筆・外交担当だった河田煕氏の懐古談を引いた。
その問答の中に、奥右筆への〔頼み〕に伴う謝礼について、組頭へはもちろんだが、その下の筆頭、「それから二番、三番、四番、五番あたりまで」は受ける、「新規の人は甘い露は吸えないというわけ」うんぬんとある。
そういうことだと、宣雄も対策を立てるであろう。
(たかが、家督の円滑と、そのあとの番入りについての頼みである。しかし、どうせ頼むなら、いま3歳の銕三郎が成人する20年先に筆頭とかニ、三番目につけているくらいの人に渡りをつけておくほうがいいかもましれないな)
いわゆる、先物買いである。
泰平がつづいていた時代だから、今日の次は、かならず明日(あした)になる---と信じていた。
しかし、3歳の銕三郎が番入りするのは20年はおろか、30年先のことかもしれない。
投資の効果が、それほど長つづきする期待をするのは、ちょっと虫がよすぎよう。
奥右筆になった能筆家が、その職にあるのは、だいたい、20年から25年間がせいぜい。
すでに、候補---というには、位が高すぎている4人を見てきている。
岡本弥十郎久包(ひさかね 廩米200俵)
蜷川(にながわ)八右衛門親雄(ちかお 44歳 250石)
水谷又吉勝昌(かつまさ 150俵)
神保(じんぼう)左兵衛定興(さだおき 200石余)
筆頭格といえる、柴田藤三郎忠豊(ただとよ 廩米200俵)に登場してもらおう。
(柴田藤三郎忠豊の個人譜)
(柴田一門の[寛政譜] 3段目が忠豊の家)
平蔵宣雄が家督願いを上申した寛延元年(1748)には、45歳。奥祐筆に移って16年のキャリア。
7年後の宝暦5年(1755)の12月6日には、52歳で組頭(400俵高)の席に就いている。
宣雄が小十人頭(1000石格)の役付になったのは、宝暦8年(1758)であった。
組頭を8年勤めて、納戸の頭(400俵高)へ栄転。
それより一足先に、宣雄は先手・弓の組頭へ出世。
二番格は、臼井藤右衛門房臧(ふさよし 150俵)。
(臼井藤右衛門房臧の個人譜)
(臼井家の[寛政譜])
寛延元年(1748)には、40歳。奥右筆に転じてから6年目の38歳の時である。
組頭への栄進は47歳の宝暦7年(1757)。
柴田とのコンビだが、7歳若い。
安永2年(1773)、63歳で広敷の用人に。
宣雄は、この年、京都西町奉行の現職で卒(しゅつ)している。
銕三郎は28歳。いよいよ、自分の英知と判断で幕臣として、世渡りしていかなければならなくなった。
ま、物語としては、先の先のことだが。
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コメント
余談ですが・・・
最近奥右筆が主人公の時代小説を見つけ読んでおります。
講談社文庫・上田秀人著「奥右筆秘帳・密封」(2007,9,発行)と「奥右筆秘帳・国禁」(2008,5)です。
投稿: みやこのお豊 | 2008.06.21 07:13
>みやこのお豊 さん
ぼくも数日前の朝日新聞の江戸特集広告のベージで目にして、読んでみようかな、とメモして、こんど図書館で文庫を探してみるつもりにしていました。
この数日は、宣雄とともにお目見した15人探しで、時間がとれません。何しろ22冊の『寛政譜』を頭からしらべていますので。こんな22冊、頭からびっしりの調べは、初めて。
投稿: ちゅうすけ | 2008.06.21 09:55