若き日の井関録之助(4)
「長谷川先輩。今夜、お付きあいください」
「なんだい? 録が奢ってくれるのかい?」
銕三郎(てつさぶろう 22歳)が大仰に驚いてみせたので、齢下の井関録之助(ろくのすけ 18歳)が照れた。
高杉道場の井戸端である。
30俵2人扶持のご家人の脇腹に生まれた録之助の懐は、いつもピーピーであった。
剣術の筋のよさを認めた高杉銀平先生も、録之助の家庭の事情を汲んで、束脩(そくしゅう 月謝)は大目に見てくれている。
「〔万屋〕が、小梅村の寮へ生活費をとどけてきたついでに、わたしの用心棒料を2ヶ月分、前払いしてくれたのです」
「1ヶ月1両2分の約定だったから、3両!」
「生まれて初めて、3両という大金を手にしました。もっとも、小判は1枚だけで、あとは元文1分金6枚と明和5匁銀がごっそりでしたが---」
「ばか。〔万屋〕が気をきかせたのだ。録が大きい金で支払ったら、相手方が出所を疑うよ」
「あ。なるほど---。これも、長谷川先輩が交渉してくださった賜物です。奢らせてください」
(右の写真:1分金 『日本貨幣カタログ 2006』より ほぼ原寸)
【参照】用心棒のことは、2008年8月15日[井関録之助] (3)
「奢りは、この次でいい。まず、高杉先生への束脩をお納めしろ。それから、1分金を2枚、貸してくれ」
「先生には、これまでの分として、2分(2分の1両)包むつもりです。長谷川先輩の2分は、はい、いま---」
録之助が汚れた袴の紐をほどき、帯を解いて腹に巻いたさらしの中から1分金を2枚とりだして銕三郎へわたし、また、着なおす。
「なんだか、暖まっちまっているぜ、この1分金---」
「あったかだろうと、冷たかろうと、1分金は1分金として通用しますから---」
「あたりまえだ。明後日、稽古がおわったら、顔を貸してくれ」
今戸の香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう)のところへの使いは、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 32歳)に頼んだ。
林造は、今戸橋北詰で、女房のお蝶(ちょう 50歳)に、料亭〔銀波楼〕という店をやらせている。
ならびの名亭〔金波楼〕とともに、けっこう繁盛しているのは、お蝶の人なつっこい人柄による。
(〔嶋や〕のモデル〔金波楼〕 『江戸買物独案内』)
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻4[五年目の客]p47 新装版p49 「気のきいた板前がいて、ちょいとうまいものを食べさせてくれるので」平蔵がひいきにしている〔嶋や〕のモデルが〔金波楼〕である。
〔嶋や〕は、巻4[血闘]p141 新装版p150 、巻6〔大川の隠居]p210 新装版p221 にも登場。
巻22[迷路]p46 新装版p43 では店主・亀次郎、女将・お金と明かされる。
〔金波楼〕のたたずまいは、ブログ[大人の塗り絵 わたし彩の江戸名所図会]の小林清親画[浅草・神田あたり]でうかがえる。
世間で怖れられている仁とはとてもおもえないほど、温和で痩身の林造に、銕三郎は意外なおももちがした。
「長谷川銕三郎と申す若輩です。お初にお目にかかります」
「〔銀波楼〕の亭主・林造です。わざのお越し、ご苦労さま」
「こちらは、道場で同門の、井関録之助うじです。日本橋・室町〔万屋〕方の頼みで、小梅の寮の用心棒となられました」
「ほう。それはそれは---で、ご用の筋は?」
銕三郎は、懐から紙包みをだし、林造の前へ押しやり、
「先日、小梅村で、小さな子どもと戯れていた、こちらのお若い衆たちを、いたずらをしていると見誤り、ちょっとした出入りをしてしまいました。普段、道場で使っている振り棒がお若い衆にあたったようにもおもわれます。つきましては、お詫びかたがた、お見舞いといいますか、医者代を持参いたしました。いまだ、部屋住みの身であり、金策に手間どり、今日になってしまいました。ご寛恕のうえ、お納めいただれば、かたじけのう---」
2人して、頭をさげる。
そのさまをじっと見ていた林造は、
「医者代と申されましたか? なんの、なんの。うちの若い者どもは怪我などしておりません。これはお引きとりくだされ」
紙包みを押し返してきた。
柔和な表情だが、目は冷たく光っている。
「それでは、お頭(かしら)からお許しをいただけたと、安堵してよろしゅうございますか?」
「もちろん」
「では、改めて、お若い衆たちの酒代というには少額ですが、お納めくださいますよう---」
「そういう名目なら---」
ぽんぽんと手を打つと、先日の今助(20がらみ)が脛(すね)と右手首にさらしを巻いてあらわれた。さらしの下は湿布薬らしい。
林造が今助の耳になにごとかささやき、ふたたびあらわれた今助は、手に紙包みをもっていた。
「長谷川さんとやら。これは、うちの若い者とお近づきになったしるしに、一杯おやりいただく酒代です。ただ、うちの若い者たちは、いま、手いっぱいの仕事をかかえており、ごいっしょできないのが無念です」
「ありがたく、頂戴いたします」
銕三郎は、ごく自然な手つきで紙包みを懐へしまった。
「ところで、長谷川さんとやら。お使いになった振り棒というのは、どういう武器ですかな?」
「武器ではありませぬ。剣術のための素振りの棒です。早く申せば、樫(かし)の太めの棒に鉄条を添えて重くしたものです。これを毎朝、300回、500回と振ることによって、腕の筋が鍛えられます」
「なるほど。その振り棒のあつかい方を、うちの若い者たちに、師範していただくわけにはまいりませんかな」
「こちらの、井関どのなら、それだけの余裕もあるかと---」
「では、井関さんを、長谷川さんの代稽古ということで来ていだきましょう。振り棒は、井関先生のほうで5本ほどあつらえてください。代金は、お持ちくださったときに---。師範料は、長谷川大先生ともで、月2両ということでよろしいかな?」
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