納戸町の老叔母・於紀乃(2)
「叔母上。讃岐守叔父上が、甲府勤番支配を仰せつかった節、伯母上もあちらへお住みになったのですございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、何気ない口ぶりで、於紀乃(おきの 69歳)に訊いてみた。
讃岐守叔父上とは、ここ、納戸町に広大な屋敷地を賜っている長谷川家の先代の当主だった・久三郎正誠(まさざね 4050石)で、5年前、明和元年(1764)に69歳で亡じている。
於紀乃は、その寡婦である。
「とんでもないわの。なぜに、わちが山流しにならねばならぬかの」
勤番支配は、3000石以上の大身幕臣で、小普請支配10人の中から2人があたる。
7年前(45歳)から小普請支配をしていた讃岐守正誠が、勤番支配を拝命したのは、延享4年(17)10月15日であった。
2歳だった、しかも家が赤坂の銕三郎と、納戸町に久三郎だったから、叔父が甲府へ赴任したときのことは、まったく記憶にない。
西丸・持弓の頭となって帰府した4年後のことにも霞のようなものがかっている。
「讃岐守叔父上が勤番支配に赴任なされたとき、於紀乃伯母上はおいくつであったのですか?」
「わちが47での。殿は52。もう、男とおんなの間柄ではなかったのよ。くっ、くくく。ところが、殿は---」
「向こうで、男がよみがえられましたか?」
「くっ、くくく---紀乃の小うるさい目がとどかなくなったことをいいことにの」
いまとなっては於紀乃も、屈託なげな口ぶりで話している。
「そのおなごとは、その後---?」
「なんでも、おんなの子を産んだげな---そうじゃ、軒猿(のきざる)の家系のむすめとかいっておったような---」
「まさか---?」
「銕三郎どのから、〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳)のことを聞いたとき、わちも、まさか---とおもうての」
「年齢があいませぬ」
「そのとおり」
「すると、叔母上が拙を甲府へお行かせになったのは、そのことを調べさすためと---?」
「くっ、くくく。いのごろ気がついたかの」
「伯母上。調査賃が安すぎました」
「くっ、くくく---」
久三郎正誠の勤番支配の因について、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)から、小普請組の頭として同役だった永井監物尚方(なおかた 38歳=当時)の先走った裁断の件がかかわっていそうだと、報せてきたので、銕三郎は、それも於紀乃に質(ただし)てみた。
「叔母上。讃岐守叔父上が、勤番支配を命じられたのは、永井丹波守さまの一件が因だったのでございますか?」
(小普請支配・長谷川久三郎正誠おとがめ)
「なにをおっしゃるッ。元文5年(1740)の初冬の、永井さまにかかわるご譴責・40日間拝謁のおとどめは、わが殿だけがうけたのではありませぬぞ。ご同役の、大岡(忠四郎忠恒 ただつね 57歳=当時 2267石余)さまも、阿部(伊織正甫 まさはる 39歳=当時 2000石)さまも、ほかの4人の支配の方々も、みなさまが同じご譴責をおうけなになられのです」
「小普請お支配のみなさまが全員でしたのですか?」
「そのとおり。じゃによって、わが殿が甲府に山流しになったのは、永井さまの件とはまったくかかわりがありませぬ。だいいち、永井さまにおとがめがあってから、7年もあとのの発令でした」
「ははあ---」
【ちゅうすけ注】元文5年の永井監物尚方の事件というのは、『徳川実記』のその年の10月29日の記述にたしかに、こうある。
小普請支配永井監物尚方出仕をとどめらりれ。同職大岡忠四郎忠恒、能勢市十郎頼庸(よりちか 50歳=当時 2000石)、竹中周防守定矩(さだのり 52歳 2235石)、土屋午(平)三郎正慶(まさのり 58歳=当時 1719石)、阿部伊織正甫、長谷川久三郎正誠、北条新蔵氏庸(うじつね 48歳 3400石)、御前をとどめらる。
これは、、監物尚方が所属・嶋田八十之助常政(つねまさ 18歳=当時 2000石)が采地の農民ひが事せしにより、八十之助常政がもとにて鞠問(きくもん)し、手鎖つけをきしほど、農民の親戚等・監物尚方が宅にうたえ出けるを、八十之助常政にも問いたださず裁断せし事、忽略(そりゃく)の至りなり。
かつ、その処置も得ざりしかば、この後こころ入て相はかるへし、とて、かく仰付られしなり。
ここに列記されている大岡忠四郎忠恒ほか6名の小普請支配のそれぞれの『寛政譜』にも、同文の記述が記されているから、於紀乃の主張は正しいとおもう。
江戸幕府の役人の連座の珍しい例である。
【参考】
もっとも、嶋田八十之助常政は咎めを受ける立場にないから、彼の『寛政譜』はこのことについて、一字もふれていない。
【参考】
(島田八十之助常政の個人譜)
【ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。
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コメント
投稿: tomoko | 2008.10.06 06:26
於紀乃叔母さまがうちの叔母に似ていておかしいのです。
氣性がしっかりしているくせに、とぼけたりして。
頑張れ、於紀乃叔母さま。
投稿: kayo | 2008.10.06 06:35
>kayoさん
kayo さんちの叔母さまが、於紀乃叔母のようなご性格とか。あれは、静岡のSBS学苑の〔鬼平クラス〕の人---八木さんの家からお嫁に入った実在の女性です。やはり、ああいう性格の人---いらっしゃるんですね。おもしろい
投稿: ちゅうすけ | 2008.10.06 07:20
>tomoko さん
秋空のような、澄み切った青空の太陽---いくつもいくつも、ありがとうございます。太陽光発電ではありませんが、おはげましに勇気が湧いてきます。
投稿: ちゅうすけ | 2008.10.06 07:25