西丸目付・佐野与八郎政親
「与八郎お兄上、久びさでした。おもしろいお話でもございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳)との打ち合わせが一段落したらしい書院へ顔をだし、客の佐野与八郎政親(まさちか 37歳 西丸・目付 1100石)へ、あいさつした。
ご記憶のいい方は、兄弟のいない銕三郎のために、兄代わりにと請うたのが、14年長の与八郎であったことを、覚えておられよう。
【参照】2007年6月5日[佐野与八郎政親(まさちか)]
2007年9月28日[よしの冊子(ぞうし)] (27)
去年の10月3日に西丸・小姓組番士から、目付に抜擢されてからは、役目がいそがしいのと、役目がら、ほかの幕臣との私的な交際はひかえるよう申しわたされているせいか、以前ほどには訪ねてこなくなっていた。
「おお、銕三郎どの。あるぞ。ありますぞ」
与三郎が話したのは、まず、側用人・田沼意次が、将軍・家治(いえはる 32歳)の声がかりで、所領の遠江国相良に城を築くことになったが、うわさでは、小さいながらも、その美しさは、鍬入れしたばかりで、もう、ささやかれているという、銕三郎も、すでに知っていることであった。
「そうそう。さるお役付き直臣の子息が、内室をむかえるというので、町方のおんなとのつづいていた縁を、無理矢理切ろうとしたところ、おんなが大川に身を投げての。まあ、行きあった舟に引き上げられて助かったが、そのことが徒歩目付の耳にはいり、いま、詮議の最中だ」
そう言って、与八郎は、もともと大きい目で、じっと銕三郎を見つめた。
「与八郎お兄上。なぜにそのように、拙をご覧になりますか。拙には、無縁の出来事ではございませぬか」
「そうかの?」
「そうですとも---」
「永代橋ぎわのなんとやらいう居酒屋で、しばしば、大年増の美形と親しげに飲んでいる部屋住みがいると、お徒(かち)の下働き(徒押 かちおし)からご注進がきておっての、それで、長谷川どのに、大事にいたらないうちにと、伺った次第---」
その後、銕三郎が〔須賀〕で、〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳)と2度ばかり話しあったのが、徒(かち)目付の下働きの目にとまったか、告げ口をした者がいるらしい。
(お竜の美形が目立ちすぎるのだ)
「お竜どののことなら、ご心配にはおよびませぬ。あの者は、おんなおとこで、拙とは、そういう関係にはなりませぬ」
銕三郎は、なぜか、むきになって言い訳をした。
与八郎は、にやりと気味の悪い笑みをもらし、
「いや、大事に至らない前の、杖です」
「与八郎お兄上は、お目付におなりになってから、人が悪くおなりになりました」
「これ、銕。佐野どのに対して、なんという口のきき方をする---」
「いや、銕三郎どのが、これから、気をおつけになれば、よろしいのです。銕三郎どの。あの美形の大年増の隅田(すだ)村の家にも目が光っておるので、こころえおきを---」
(そうか。これは、与八郎兄上の、精一杯の好意であったのだ。さっそくに、お竜に言って、〔狐火(きつねび)〕に連絡(つなぎ)をつけ、あれたちの住まいを替えなければ---)
〔須賀〕でお竜に目をつけた下働きが、その帰りを尾行(つ)けて、あの家に行きついたのであろう。
(さて、だれに言伝(ことづ)けたものか。その者も尾行(つ)けられようから、滅多な者はつかえない)
【ちゅうすけ注】佐野与八郎は、その後、堺の奉行、大坂の町奉行---と順当に出世をし、田沼派とみられて役をしりぞいてから、平蔵宣以(鬼平)が火盗改メ・本役を勤めていた45歳のとき、59歳で助役(すけやく)としてともに盗賊追捕の職に働いたこともあるご仁なので、鬼平ファンなら、ご注目をつづけられたい。
もっとも、そのときは与八郎ではなく、従五位下・豊前守に受爵しており、格は鬼平よりも上であったが、つねに平蔵をたてていたと、史書なある。それだけでも、人柄がしのばれる。
(佐野家3代 政春・政隆・政親の家譜)
| 固定リンク
「094佐野豊前守政親」カテゴリの記事
- 平蔵と佐野与三郎政親(2)(2012.05.20)
- 平蔵と佐野与三郎政親(1)(2012.05.19)
- 佐野与八郎の内室(2010.09.20)
- 佐野与八郎の内室(4)(2010.09.23)
- 佐野与八郎の内室(5)(2010.09.24)
コメント