「久栄の躰にお徴(しるし)を---」(3)
(つきあいが狭すぎる)
銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、自分のつきあいの狭さを、つくづく嘆いた。
いや、男同士なら、狭くはない。
しかし、おんなとなると、いまのところ、5本の指にもみたない。
うち、2本は、おまさ(12歳)とお絹(きぬ 13歳)だから、まだ子どもといっていい。
このことは、母・妙(たえ 43歳)にも、本家の於左兎(さと 44歳)伯母にも、納戸町の於紀乃(きの 69歳)大叔母にも訊けるようなことではない。
気軽に教えてくれそうな阿紀(あき 享年25歳)はこの世のものではないし、お仲は黙って消えた。
(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿紀のイメージ)
お静(しず 21歳)は京都だ。
ニッ目通りの弥勒寺門前の茶店〔笹や〕のお熊(くま 45歳)に訊こうものなら、それこそ狼の前の兎---たちまち、あの40おんなの餌食にされてしまうのが目にみえている。
銕三郎は、思案につまって、高杉道場の帰り、永代橋東詰の居酒屋〔須賀〕を訪れた。
「長谷川さま。お久しぶりでした」
七ッ(午後4時)を打ったばかりなので、お須賀(すが 30歳)は、まだ、化粧もしていない。
「恥をしのんで、お須賀どのに教えていただきたいことがあります」
「なにごとでございましょう、長谷川さまが恥をしのんでとは---お金の工面なら少しは---」
「とんでもございませぬ。鳥目(ちょうもく)なら拙も、十分ではないが持ちあわせております」
「銭金(ぜにかね)でないとすると、おんな? まさか」
亭主の〔風早(かざはや)〕の権七(ごんしち 36歳)は板場で包丁をにぎっているのか、姿をみせない。
「いえ。その、おんな---です」
「まさか? できてしまったので?」
「いや。そうでは---」
「でなければ、なんでしょう?」
「お須賀どのの初めてのときのことを---」
「初めて---といいますと?」
「そのう、処女(おとめ)から、おんなになったとき---」
「いやですよ。こんなおばあちゃんに---処女時代のことなんかお訊きになって---」
「いや。初めて男を受けいれると---」
「あら。すっかり忘れておりました」
「やはり?」
「ええ」
「ひどく?」
「いえ。縫い物をしていて、針を持つ手元がすべって、ちくりときたような---」
「それを、感じさせない方法はありませぬか?」
「さあ。でも、そのことは、むすめ時代から聞きおぼえで、みんな、それとなく、覚悟はしていますからねえ。でも、そのうちにそのことがよくなり、好きになってきてしまい、つい、あのときのことは、忘れてしまいます。なんのかんのと言っても、たった一度きりの、またたきするあいだのことですからねえ、好きな男との---」
お須賀は、齢甲斐もなくはにかんだ。
「なんの話だえ、うれしそうな顔して---」
板場から権七があらわれた。
「お前さんにはかかわりのない話さ」
「長谷川さまにかかわることなら、おれにもかかわりがあるぜ」
「あたしが、おんなになったときのことさ」
「お前は生まれたときから、おんなでねえか」
「初めて男が入ってきたときのこと」
「はいってきたって---そりゃあ、お前のほうが招きいれたんでねえか」
「馬鹿お言いじゃないよ。お前さんとのときは、無理やり押しこんできたくせに」
「なにぬかしとる。お前は、躰をそり反えらせてよがったぞ」
「それは、はいりきったあとの話。馬鹿だねえ、独り身の長谷川さまの前で、あられもない話におとして---」
「え? 初めてのとき、痛がらせないやり方を知らないかってんですか? そんな技(て)は、世界中さがしたってありゃしませんぜ。四の五のい言わせねえで、ずばっとひとおもいにいくんでさあ」
「万事が荒っぽいお前さんとは違うんだって、長谷川さまは。相手のおなご衆のことをおもいやって、思案していらっしやるんです」
「はしたない話を持参して、女将どの、ご容赦ください。また、そのうちに、ゆっくり、呑みにきます」
銕三郎は、永代橋を西へ渡った。
川風が、めっぽう、冷たかった。
川面も縮んだような小波をつくっていた。
それで、銕三郎は、6本目の指をおもいついた。
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