銕三郎、一番勝負(2)
刃を感じた瞬間、右へ飛んで法恩寺橋の川下側の欄干へ向かって走っていた。
羽織の袂(たもと)が斬りさかれていたことには、あとで気づいた。
欄干へ躰をぶつけるようにして停まるや、すばやく抜いて構え、
「高杉道場の者と承知の上でのことかッ」
星明りをすかして、斬り手の面体をたしかめるが、よくはわからない。
咄嗟に高杉道場の名を出したのは、道場がすぐそこであったことと、高杉銀平師から、つねづね、
「剣客という者は、殺してしまうまで、負かした相手につけ狙われると観念しておいたほうがよい」
と聞かされていたからである。
銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、これまで、道場の外で試合をしたのは一度きりである。
つい先ごろ、初見(しょけん)を控えての予見で武芸を腕を試されたときの、それである。
負けはしなかったが、勝ちもしなかった。
3,4合、竹刀をぶつけあって、それで合格した。
幕府は、武芸を重くは見てはいない。
あとは、〔初鹿野(はじかの)〕一味の刺客を打ちのめしたのと、〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)のところの若い者(の)たちをちょっと痛めただけである。
【参照】2008年8月2日 〔梅川〕の仲居・お松] (2) (3)
〔初鹿野〕一味は江戸から去ったはずだし、〔木賊〕の元締とは、いまではいい仲になっている。
銕三郎のかんがえは、戦う前に威圧してしまってこそ兵法---これである。
斬り手は、黙ったまま、じりじりと間合いつめてきた。
1間半。
(物盗りか?、怨恨の闇討ちか? どちらにしても、ここで斬っては、ことが面倒になる)
不思議に、斬られる気はしなかった。
間合い、1間。
相手の顔が見えてきた。
月代(さかやき)を伸ばしている。
(浪人だな)
瞬間---突いてきた。
棟ではねあげる。
と、そのまま打ち下ろしてくる。
棟で受けておいて、そのまま、躰をぶつけ、退(ひ)きぎわに胴を撃った。
相手が二つの折れて倒れた。
橋の東詰の木戸番に、
「そこで物盗りの浪人を倒した。斬ってはおらぬ。近くの辻番所へ頼んで、捉えてもらいなさい。拙は、出村町の高杉道場の門弟です。お問い合わせは道場へ。ちと、急いでいるので、ごめん」
番太が、氏名を訊く前に、そう言って、出村町のほうへ去った。
道場の前を素通りしながら、いまの斬りあいを反趨してみた。
師の教えどおりに、刀の棟で受け、棟で撃った。
(銕三郎、一番勝負。
銕、あっけなく、勝てり。
それにしても、小浪のことをかんがえていて、羽織を斬られた。
だらしなし)
銕三郎が向かっていたのは、高杉道場からすぐ先、小梅村の大法寺隣り、茶問屋〔万屋〕の寮であった。
そこには、同門の井関録之助(ろくのすけ 19歳)と鶴吉(つるきち 7歳)と乳母・お元(もと 32歳)が暮らしている。
【ちゅうすけ注】鶴吉とは、20数年後に、『鬼平犯科帳』巻11の[雨隠れの鶴吉]となって戻ってくる盗賊である。
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