宣雄、火盗改メ拝命(5)
「きょうは、いたく、こころした」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)が、辰蔵(たつぞう 2歳)を寝付かせている久栄(ひさえ 19歳)に述懐している。
牛込山伏町に本多讃岐守昌忠(まさただ 60歳 430俵)を訪ね、卯木(うつぎ)づくりの十手を拝観した経緯(ゆくたて)を話すのである。
「舅(しゅうと)どの作法は、万事がそのように、こちらが悟るまで、黙って見守っていてくださるやり方なのです」
父・平蔵宣雄(のぶお 53歳)が火盗改メを拝命し、南本所・三ノ橋通りの長谷川邸が役宅となった。
それで、先手・弓の8番手の与力・同心たちが、市谷本村町の組屋敷から、毎日、通ってきている。
2年ほど前に銕三郎は、父・宣雄にいつ火盗改メの下命があってもいいように、組屋敷から歩いて距離をはかり、1万232歩---1里20丁(6.3km強)と割り出し、毎日の通勤は苦労だから、1直2日勤務1休制を宣雄に提案して、実現していた。
【参考】2009年2月19日~[隣家・松田彦兵衛貞居] (3) (4)
町廻りの同心は、役宅に顔を見せてから出かけるのでなく、府内のあちこちに連絡所を設け、そこに指示を伝えておき、そこから見廻りに就くようにもした。
しかし、ただでさえ捕り物好きの銕三郎が、宿直をしている筆頭与力・秋山善之進(ぜんのしん 50歳)や、若手の同心・雨宮三次郎(さんじろう 26歳)などに、盗賊探索の手伝いを申しいれているのを、宣雄が憂い、本多讃岐守から木製の十手の由来を聞かせ、火盗改メの職務は、探索ばかりではなく、盗みをしなければ生計(たつき)がなりたたない者たちへの慈悲を悟らせたのである。
【ちゅうすけ注】銕三郎が平蔵を襲名し、火盗改メとなったとき、配下の者たちに、十手の使いすぎを禁止した史実が、『よしの冊子』に記録されて残っているのは、父・宣雄の教訓を肝の銘じたからであろう。
2007年9月15日[よしの冊子] (14)
『よしの冊子』を(1)からお読みになるなら、(2)←をクリック、あとはタイトルと当日の日付の上の右側の(3)(4)---を順のクリックしてください。
男の子は、父に反発しながら、父から多くのことを学びとるものである。
「舅どのは、銕(てつ)さまに、賊の探索よりも、賊をつくらない手だてをかんがえよと、暗にお示しになったのでございましょう」
「久栄。それは、火盗改メの仕事ではなく、お仕置き(政治)をなさる老職衆(老中と若年寄など)の役目であろう」
「いいえ。火盗改メのお頭が慈悲をお示しになれば、その噂は千里をはしるがごとくに盗人たちのあいだに伝わり、お仕置きへの反発(すね)から盗みをしていた人たちが思いとどまることもありましょう」
「盗人と浜の真砂は尽きぬというぞ」
「根っからの悪人半分、やむなく悪に手をだす者半分でございましょう」
「うむ。思案をしてみよう」
「ところで、腹のややは、何ヶ月であったかな?」
「4ヶ月でございます」
「では、今夜は、静かに眠るとするか」
「いいえ。お隣の於千華(ちか 36歳)さまから、4ヶ月目の睦み方を教わりました」
於千華は、隣家・松田彦兵衛貞居(さだすえ 64歳)の後妻で、夜の精力をもてあまし、なにかと久栄を焚きつけている。
「なに? そのような秘め事も教わっているのか---」
「この屋敷では、与詩(よし 14歳)さまの耳がありますから、姑(しゅうとめ)どのには、訊けませぬ」
「母上に、そのようなことを訊いてはならぬぞ」
「だから、於千華さまに---。2通りありますが、今宵は、その1を。銕さま。上を向いてお構えくださいませ」
久栄の指が銕三郎の下腹をやさしくまさぐった。
と、上へかぶさり、手を添えて、するりと---。
(清長 『梅色香』イメージ)
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