もう一人の付火犯
目黒・行人坂の付火(つけび)の犯人を挙(あげ)たということで、火盗改メの頭(かしら)としての長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳)の声価は、江戸城内で一挙に高まった。
とくに、災禍にあい、屋敷を焼かれた幕臣たちは、宣雄をみかけるとわざわざ寄ってき、あいさつを投げかけた。
「長谷川どの。胸のつかえがとれた感じですぞ。よくぞ、火刑にもちこんでくだされた」
その成果にかくれて、宣雄が評定所へ伺ったもう一つの付火犯にたいする減刑のことは、ほとんど語られることがなかった。
焼失した幕府の建物---虎門、日比谷門、馬場先門、桜田門、和田倉門、伝奏屋敷、幕府評定所、常盤橋門、神田橋門につづいて、万(よろず)町の西河岸から南伝馬町の商家および牢獄と記しておいた(2009年7月2日 [目黒・行人坂の大火と長谷川組] (1) )
このうち、牢獄とあるのは、ふつうは小伝馬町の獄舎、あるいは囹圄(れいぎょ)といわれているところである。
火難がおよびそうなときには、獄舎に収容している者たちを解きはなち、一定の期間内に戻ってきた入牢者には、罰一等を減刑することになっていた。
宣雄の先役・中野監物清方(きよかた 50歳)組が捉え、小伝馬町の牢で処刑をまっていた放火犯・武州賀美郡(かみのこおり 現・埼玉県熊谷市)無宿の儀八こと清覚(せいかく)は、明和9年2月29日の大火のおり、解き放たれたが、鎮火後、期限内に帰牢した。
しかし、掛かりの中野清方はすでに病死によって解任され、長谷川宣雄が本役を命じられていたので、評定所へも長谷川宣雄名義で伺われたのである。
それが、『御仕置例類集』に収録されている。
【参照】2009年6月15日[宣雄、火盗改メ拝命] (2)
:現代文に直して転紀してみよう。
火附盗賊改
長谷川平蔵伺
一、附火いたした者で、牢屋類焼のとき、立ち帰った件について評議
武州賀美郡無宿
儀八こと
清 覚
右の者は、寺の垣を乗りこえて侵入し、木仏、打敷、多葉粉を盗みとり、または寺で傘をも盗んだ上、武州豊島郡前野村(現・板橋区前野村)・百姓文次郎居宅の前に積まれていた稲に附火したことは、重々ふとどき至極なので、町中引き廻し、5ヶ所に罪状を記した捨札を立て、火罪を申しつける旨、せんだって、中野監物からお仕置きのことを伺っておりました。ところが牢屋が焼失のとき、放(はな)ちましたが、とどこうりなく立ち帰ってきたことを、長谷川平蔵からご報告ずみであります。
この儀、盗みをするべく火をつけたのですから、監物の伺いのとおり、引き廻しのうえ火罪に相当しますが、牢屋類焼のために放ちやりのあと、ちゃんと立ち帰ってきた者は、刑を一等軽くするとのお定(さだ)めにしたがい、死罪は遠島・重追放ですが、火罪の一等軽くは遠島に準じ、無期懲役を申しつけたく、お伺いいたします。
6月
評議のとおり決。
大円寺の放火犯・長五郎真秀(しんしゅう 18歳)の火あぶりの刑が執行された翌日の、6月22日---。
宣雄は銕三郎(てつさぶろう 27歳)を伴い、四谷の香華の寺・戒行寺を訪れ、真秀の鎮魂のための読経を、日選(にっせん)師に乞うた。
陽が照りつけている外では、蝉しぐれが、本堂での読経に和している。
【ちゅうすけ補】火盗改メのときに、死罪・火罪にした者たちの供養をしてやる習慣を、銕三郎はこのとき、父・宣雄から学んだ。
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