目黒・行人坂の大火と長谷川組(5)
「父上。所化(しょけ 修行中の僧)・長五郎真秀(しんしゅう 18歳)の捕縛をお伏せになりましたこと、まこと至極のご処置と、感服つかまつりました」
夕餉(ゆうげ)のあと、茶を喫しながら銕三郎(てつさぶろう 27歳)が言うと、
「銕(てつ)。そちは、焼失させられた町方の衆の恨みによる私刑のことを言うておるのであろう?」
「はい」
「そのような浅慮では、火盗改メは勤まらぬぞ」
「は?」
「細井金右衛門(正利 まさとし 60歳=明和4年 200俵)どののことを覚えておるか?」
「あっ!」
細井正利は、下掲の【参照】に『寛政譜』をかかげているとおり、明和2年(1765)58歳に先手・弓の5番手の組頭となり、翌3年6月18日から火盗改メの増役(ましやく)を命じられた。
増役とは、臨時に増員された加役(かやく)で、事件が多く、本役(ほんやく)と助役(すけやく)の2組では手がまわりかねるときに発令される。
【参照】2008年6月11日[明和3年(1767)の銕三郎] (5)
細井が役を免じられたのは明和4年(1767)6月20日だが、前年の閏9月16日に、捕らえていた放火犯を獄にくだすべく言上したのはいいが、それが与力まかせの誤認逮捕で冤罪であることがわかり、職務怠慢・職責粗略のうえに誤審を糊塗しようとしたとみなされ、職をうばわれ、小普請におとされ、逼塞を命じられた。
「放火犯の確定はむずかしい。よほどに証拠がためをしてかからないと、評定所でひっくりかえることがあるのだ」
「たしかに。長五郎が放火したところを、大円寺では誰もじかには見ておりませぬ」
「脇の証拠ばかりよ」
そういうことで、平蔵宣雄の取調べは詳細をきわめた。
南本所・三ッ目通り長谷川邸の仮牢から、縄付きの長五郎を目立たないように裏門から横川に待たせある、ぐるりに障子をたてまわした屋根舟にのせ、数人の同心と小者が警備にあたりながら、横川から大川、江戸湾を南行して品川浦へ。
そこから目黒川を遡行、行人坂下の石橋・太鼓橋で下船してからも長五郎には深編笠をかぶせて大円寺の焼け跡へ連行した。
(目黒・行人坂下の目黒川に架かる石の太鼓橋
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
大円寺の行人坂に面したところは目隠しの板塀が建てめぐらされ、通りからは証拠調べのぐあいが見とおせないように手くばりされていた。
長五郎は、ほんのボヤをおこして、その騒ぎのすきに金銭を盗んでにげるつもりだったようだが、烈風のために火勢が強められ、おもわぬ大火になってしまったと、悪びれることなく、放火の仔細を白状する。
しかし、宣雄は、それでは満足せず、さらに細かくつめていった。
放火現場の取調べは、3日おきに4日もおこなわれた。
「銕(てつ)。なぜ、日をおくかわかるか? 口供の細部にくいちがいでるのを待っているのだ。そこを衝(つ)けば、真実がこぼれでる」
宣雄の遺漏のない検証は、幕府高官が讃嘆するところであった。
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コメント
たしかに放火犯人の確定は難儀ですね。
だれも見ていないところでやるのでしょうから。
状況証拠だけで断定されては、誤認もありえます。
宣雄が慎重になるのもとうぜんです。
投稿: tomo | 2009.07.06 05:27
>tomo さん
ある史料によると、宣雄の、この大火の放火犯に対する取調べは綿密をきわめたそうです。
その成果が買われ、寺社関係のもめごと扱いの多い京都西町奉行へ栄転(?)したのだと。
もっとも、別の理由もあったとも。すなわち、遠国奉行のうち、京都、堺、長崎の奉行には進物が多いから、火盗改メ時代に消耗した資産を埋め合わせできたのだとか。
投稿: ちゅうすけ | 2009.07.06 08:10